「もう爆豪と別れようと思って」
同期で一番に結婚するだろうと思われていた二人が、案外と上手くいっていないことを知っているのは、おそらく世界でも指を折るほどしかいないだろう。何の因果か、たまたま現場が被ったのをきっかけに――現場が普段は被らないという時点でばれるかしら――繰り出した飲み屋で、耳郎響香は私に告げた。爆豪勝己と分かれるつもりだと。まあまさかあの彼に限ってそんな、とは思いながらも続きを促すと、乙女は頬を桃色に染めて――なんてことはなく、淡々と不満を吐く。恋人とヒーローの時の扱いの差がない。彼はいつだってヒーローだ。ニュースはいつだってチェックしているし、新聞を三社、お得意の探偵を抱えて情報を得るようにしている。時折耳寄りな情報を教えてくれるのはありがたいけれど毎朝新聞を広げられると気が散るし、何より情報を集めていない自分がだめに見えてくる。速報です、その六文字が聞こえるだけで彼の姿勢は準備段階にシフトする。いつ呼ばれたって良いように、彼は全力で構えている。彼はいつだってヒーローだ、けれどいつだって恋人だ。半ば公認となっている二人の中をマスコミが茶化せば勝手にあしらってくれるしその分は楽だけれど、負担をかけているようで気分が悪い。食費に家賃は折半、共用財布の割合に負担があるわけでもなし、酒を飲むタイミングにずれがあるわけでもない、基本的に対等なパートナーとして存在しているのにそういうときに限って爆豪ばかりが対応を奪っていく。マスコミは大げさにつついた結果カップルが二組破局を迎えたあたりで学んだのかしつこく嗅ぎ回ることはないけれど、マンションの前をうろついていることはある。手を打とう、と部屋でくつろぐ彼に連絡を入れてから声をかけにいこうとしたら爆豪からの連絡が入る。お前はそこで待っておけと。部屋に帰れと。代わりに俺が行く――と。一人前のヒーローに対してどこまでも守りを尽くされてしまうと立つ瀬がない。
「ウチだってヒーローだよ、そりゃ、アイツに比べたら攻撃力はないけどさ」
でも、探査能力は、ウチの方がある。最後に水を勢いよくあおって、耳朗響香は言い切った。
「その通りね。……あら、寝ちゃったのね」
一服を盛った身としてはわざとらしいけれど、対外的なアピールも必要だ。
「お会計お願いします。あと、領収も」
■
十階建てのマンションに二人は住んでいる。最上階から二つ下、普通の身体能力ではまずたどり着けない高さの部屋に陣取った部屋はいつだって片付いていて、爆豪の家事スキルの高さを感じさせる。きっと「女の子らしい」ことに不得手を感じている彼女にとってはそれも不満――もしくは不安――の一つなのだろう。気にしなくても良いだろうに、と思うのは外野からの言葉だ。きっと彼女には刺さらない。刺さったとしても悪い方向だろう。
「なんだ、お前か」
「なんだ、お前か、とは同期の女の子に対しての言葉遣いにふさわしくないと思うわ」
「……んだ、喧嘩でもしたか」
聡明かつ敏感な男は、私の嫌みに対しても反応してみせる。なんだ、こいつと喧嘩したからいらだっているのか、なら俺が謝ろうなんて殊勝な心がけ、高校時代からは想像も出来ない。
「私たちはしてないわ。喧嘩でもないし」
「そうかよ」
彼の視線は私の背中に釘付けだ。正確には背中に背負われた、すっかり眠り込んでいる彼女に。ああ愛されちゃって。うらやましいわね。純粋にそう思いながら体を反転して、彼が彼女を抱き上げるのを待つ。さら、と聞こえたのは衣擦れの音だろうか。とんとんと響く振動に背中をさすっていることが分かる。少し浮上した意識を確認して、両脇に手を差し込んで勢いよく抱き上げる。その衝撃でお姫様は目を覚まして、そうして私の背中に気付く。
「わ、寝ちゃってた?」
「ええ。ちゃんと送り届けたし、もう帰るわね」
「おう。気ィつけてな」
「じゃあね、響香ちゃん」
おやすみ、と抱き上げられたまま彼女は緩慢に手を振る。薬を盛ったのは悪かったかしら、と独りごちながら近くの駅に歩いて行く。タクシーを捕まると、呼ばれたのはヒーローネームだった。
■
『今日はお邪魔してごめんなさい。本当は響香ちゃんに睡眠薬を盛ってしまったの』
ふらふらと足取りの危うい彼女をベッドに運び、窮屈そうな首元を緩め、首筋と耳周りのマッサージをしてやり、そこで光る端末を確認するとそんなメッセージが入っていた。どうりで様子がおかしいわけだ。睡眠が足りてなかったから助かる、と返信するとすぐに既読がつく。
『爆豪ちゃんは、一人の男として響香ちゃんを守ってるのね』
ぴょん、と効果音とともに投下された爆弾にむせる。ぐふ、と喉元で空気がはぜた。こいつらは一体何の話をしてきたのか。というか組み合わせおかしくないか。現場は基本被らない個性のはずだ。
『ヒーローをヒーロー扱いしないことは、すごく難しいことよね。私だってすぐに忘れそうになるし、きっとみんな休んでいてもずっとヒーローよ』
何の、話だろうか。意図が読めない。文面を確認しても、文脈を確認しても、やはり意図はくみ取れない。けれど、別れ際、気をつけろと告げたときの彼女の表情を思い出した。驚くような、泣き出しそうな、嬉しそうな、悲しそうな、様々な感情を煮こごりにしたかのようなものだった。
『でも、それが本人に伝わっていなければ意味がないわ』
別に伝わらなくてもいい、自分のやりたいようにやっているのだから、見返りは不要だ。そう返そうとした瞬間だ。
『きっと来週あたり、別れ話が来るからそれまで反省してなさい』
おやすみ、とケロケロ効果音のつくスタンプで会話は終わった。会話と言うよりは説教、説教と言うよりは告げ口と言ったような、いや、アドバイスだろうか。とにもかくにも、こちらかのレスポンスは受け付けないものだった。
「わ、……――わかれ、ばなし?」
こぼれた言葉は、自分のものとは思えないほど狼狽していた。
■
さて予言の一週間後である。
勝己、別れよう。
何度も練習した言葉は、結局震えに震えまくって聞き取ってもらえなかった。何て? と繰り返す柔らかい表情が好きだ。高校から数えて十年、付き合い始めてからは六年、同棲を始めてからは五年。日に日に柔らかくなっていく勝己の表情が好きだった。いいや、今でも好きだけど、このまま二人でいたらきっと嫌いになってしまう。
「わかれよ」
繰り返すと、ようやく柔らかい表情が歪む。眉間にしわが寄って目が細くなって、あああとうめきながら天井を仰ぐ。一分、二分、どれだけそうしていただろう。体感としては十分くらい、でも実際にはかればそう長くはない。
姿勢を正した爆豪勝己は、まっすぐ向き直って口を開いた。
「別れたいんか」
「うん」
「……理由を聞いてから、答えてもいいか」
「うん」
ちょっとまて、と男は席を立ってキッチンに立つ。とぽとぽ、とケトルに水を入れて湧かす。そのすきに広げた新聞を畳んで仕舞い、つけていたテレビも消す。無音となった部屋に、コーヒーを淹れる音が響く。冷蔵庫から牛乳を出して二人分のマグに注ぐ。レンジにかけて一分、抽出されたコーヒーを混ぜてたっぷりの砂糖を落とす。二人分のカフェオレを作ってから、勝己は戻ってきた。
ウチの、目の前に。
「……じゃあ、聞かせてくれ」
別れを提案された男の表情は真剣そのものだ。分厚いマグは口をつけても熱くない。温いカフェオレを一口飲んで、最大の理由を告げることにした。やっぱり勝己のカフェオレは美味しい。安物の牛乳と安物の豆なのに、あの手にかかれば喫茶店顔負けの味になるのだ。
「アンタといるとね、なんか、自分がだめな人間に見えてくる」
朝の新聞のこと、ニュースのこと、マスコミの対応のこと。先週同じこと話したなあ、なんて思いながら指折り説明すると、勝己の表情は無に近づいていく。
「響香」
ああ、丸め込まれるのはいやだ。半ば反射的に口を開けばぽろぽろと言葉が落ちていく。
「別に新聞一つ読めば良いって言ってるわけじゃないよ。情報のすりあわせ必要だし、理解も出来る。毎日やるなんてすごいなって、……真似できないから、情けなくなるんだよね」
「響香」
「爆心地と最近どうですか、って、聞かれるのいやだけど、でもそれも仕事じゃん」
「……響香、違う」
絞り出すかのような声にはっとした。マグカップを握りしめたまま、爆豪がうつむいている。悲しませたかったわけじゃないのに。撫でてやろうか、手をつなごうか。判断がつかないまま右手が浮いてテーブルに落ちた。
「新聞は、悪ぃ、威圧しねえようにする。飯んときは静かにする。気付かなくて悪かった」
悪かった、と気付けばすぐに謝れるのは美徳なのだろう。悪かった、とかすれた声に胸がきゅっと痛む。だから、悲しませたいわけではない。これは至らない自分が嫉妬して辛くなって、逃げたくなっているだけだ。
「けど、マスコミの対応はやめねえ。これは譲らない」
ぽつり、と。けれどしっかりと告げられた言葉に戸惑う。爆豪勝己が譲らないとき、そこには必ず信念がある。でもたかがマスコミのゴシップ対策に対して信念があるだろうか。
「でもウチだってヒーロ」
「ちげえよ、お前は俺の女だ」
「ぉ、え、は?」
俺の女。おれのおんな。おれの、おんな。突拍子もない言葉にまともな言葉が出てこない。なみなみと告がれていたカフェオレを一気に飲み干して、爆豪は手の甲で唇を拭う。
「俺たちは、ヒーローである前にただの人間だ。分かるな?」
問いかけに頷くと、そうだ、と肯定の声が続く。
「俺たちは一個人、一般の人間でもある。ただの人間の関係性を、ヒーローという身分一つで全部暴かれる必要も、教えてやる義理もないし、そんなモンはプライバシーの侵害だ。大体昔からそういうコンテンツとして有用だって解釈されて娯楽だって信じ込まされてきたから、じゃあ今も娯楽として扱われろなんて道理は通らねえ」
分かるか、という問いに、すぐには頷けなかった。
だって、生まれる前からヒーローの恋愛報道は日常に浸透していた。あのヒーローは離婚したからランキングが下がったとか、あのヒーローは婚約したとか、お相手は一般女性だとか、どこで知り合ったとか、自分自身興味はなかったけれどみんなそれを気にして、楽しんで生きてきた。
だから自分の身に降りかかることも覚悟していた。
それなのに。
「俺たちの仕事はなんだ」
「ひー、ろー」
「そうだ。ヴィランを捕まえて、場合によっては殺して、そんで人々と平和を守るのが仕事だ。そんなかにゴシップの材料になるなんてもんはねえんだ」
目から鱗が落ちるようだ。実際に落ちたのは涙だったけれど。目の前に差し出されたティッシュ箱を抱えて三枚くらいとった。ぼろぼろと勝手に落ちていく涙は止まる気配がない。
「俺は好き好んでマスコミに話してるわけじゃない。ただ、響香がこんな話するより俺がした方がましだと思ってやったことだ。爆心地じゃねえ、爆豪勝己として、ただの一個人、普通の人間として、男として、……――」
滲んだ視界で爆豪が唇をかむのが見えた。薄い唇だ、きっと痛いだろう。
「――お前が泣かなくてすむように、守ろうとしてた」
「ごめん、いま、ないてる」
「知っとるわ。あー、んだこれ、だせえな」
ガリガリと頭をかいてまた唇をかむ。やだなあ、こんなにいい男だったんだ。知らなかった。惚れ直しそう。ださくなんかない、格好よくて、芯の通ったいい男だ。
事件後のインタビュー、二人で受けていると必ずと言って良いほどその話題になる。決まって爆心地は、いや、爆豪勝己はイヤホン=ジャックこと耳郎響香をその場から追いやった。それがいつも悔しかった。ヒーローとしてその応対に向いていないと言われているようだったからだ。
「……あれ、ウチのためだったんだ」
「……ああ」
「爆心地じゃなくて爆豪勝己だったんだ」
「んだよ」
照れくさそうにそっぽを向く男のあどけない横顔に頬が緩む。ようやく止まりそうな涙を拭って、大きく深呼吸をする。
「勝己、アンタのこと好きだわ」
「俺だって愛しとるわボケ」
一ヶ月くらい悩んだ別れ話はどこかに消えた。涙に隠れて逃げたのかもしれない。好きとか愛してるとか、めったに言葉にしないせいで恥ずかしくなって二人とも黙りこくる。ああ恥ずかしい、でも、嬉しい。
――甘酸っぱい空気は五分と持たなかった。
緊急招集のアラートが二人の端末に響く。半径一キロ以内のヒーローが呼び出されるものだ。百メートル、五百メートル、一キロと刻んで選ばれるルールは、つまり五百メートル以内にはヒーローがいないことを示している。
「いくぞ」
「うん。あ、一つお願い」
「何でも聞いてやる」
「簡単だってば」
家に置いてある予備のヒーロースーツに着替えながら、ウチは一つのお願いをした。いいのか、と確認をとる恋人は少し嬉しそうだった。
■
緊急招集に応えてのお二人の活躍! お二人はこの近辺でご一緒だったとのことですが。
「――あー、そのことについて皆様にお話があります。生放送ですか? これは重畳」
はい? ええ、生放送です。
「爆心地とイヤホン=ジャックの私生活について、今後一切取材に応じることは出来かねます」
(ざわつく取材陣)ええと、それは……。
「こちらから発表があるまで金輪際ノータッチで願います。今ここにいるマスコミの方は社内に周知を、いらっしゃらない方に関しては生放送の本インタビューを持って周知とさせていただきます。事件を利用する形、善意……のインタビューを利用する形となり申し訳ありません。また、これ以上の詮索があった場合、ペナルティとして弊ヒーロー事務所、並びに連名事務所所属のヒーローへの取材依頼の優先度降格をとらせていただきます。以上、よろしくお願いいたします」