エバーアフター

 人間は、変化する生き物だ。良くも悪くも発生する変化を見逃すことだってある。口にしなくては伝わらないことだってある。分かっているつもりで、何も分かっていないこともある。
 人間は、都合のいいものばかり見てしまう。綺麗な人間には美しさを求めるし、醜い人間を見下してしまう。他者を容姿から得られる情報で決めつける行為は褒められたことではない。相手のことを知れば見方も変わるし、付き合い方も変わる。
 人間は、忘れる生き物だ。自らがどうであったか、他者がどうであったか。都合の良いように覚えて、都合の良いように忘れていく。ずっと一緒にいるからと他者への気遣いも忘れ、関係は劣化していく。
 ずっと一緒に居るから、なんて思い込みは、時に相手を傷つけるのだ。

 地下一階、と一口に言っても、その深さは様々だ。例えば黒井澄が歩いている地下一階は、同じ建物の地上一階の高さを凌駕している。きちんとした数字は知らないが、目測で比べるとおよそ一・五倍。一定の間隔を保って並ぶ本棚や、一角に詰め込まれた電動の本棚の背丈も、地上書庫にあるものより随分と高い。それでも窮屈さを覚えないほど、頭上には空間が広がっている。
 地下一階は、ワンフロア全てが閉架書庫となっている。第一第二第三書庫と分かれているその全てが関係者以外立ち入り禁止で、カードキーによる解錠が必要な空間には、貴重な本が静かに眠っている。
 修繕が必要で一時的に避難している本もあるが、資料や古くなった本、利用頻度の下がった本が主な住人だ。市場価値が計れない稀覯本や、美術的価値は低いが歴史的価値の高い本もひっそりと住んでいる。様々な本が其れ其れの理由で納められた本棚は、その用途に合わせたものだ。重量のある書籍群は電動棚に、修繕の必要な本は修繕道具の揃った作業場所の傍に。価値が高いという理由で人の目にさらせないものは、鍵のかかる本棚に。全ては、貴重な本を損なわないために誂えてある。
 澄は、入り口からすぐの修繕待ちから数冊手に取り、作業場に陣取った。がさりと上着の擦れる音が空間に落ちていく。みぞおちに貼ったカイロは気合いが入っていて、腹の底に熱を落としていた。
 作業台に道具を広げ、機器の電源を入れていく。足下の小さなヒーターにも電源を入れ、台の正面に陣取った。今日の仕事は、本の修繕。表紙と本文をそっと分けて、痛みのひどい部分から処置を施していく。
 
 閉架書庫の全ては、本のためにある。総動員で行う蔵書整理の日を除けば人間の為に温度を上げたりも下げたりもしないし、湿度の調整もしない。人より温度差に敏感な自覚があるから、澄のロッカーには常に分厚いブルゾンが入っている。黒斗からのプレゼントだ。他の職員も似たようなもので、冷えがひどいのだと自称する同僚なんかは大判のカイロが箱で入っている。時折買い置きが切れて分けてもらうのだが、頻度が上がってきたので澄も箱買いを検討している。
 世の中の図書館には、開架書庫と閉架書庫というシステムがある。館の性質によって割合は偏るが、澄が働く区立からたち図書館は、閉架書庫に重きを置いている。開館当初はもう少し開架側への比重があったらしい。普通の図書館の割合に似ている。
 本の管理には金がかかる。その上閉架書庫となればセキュリティに温湿度管理にと、設備投資も必要となる。館の予算は有限だ。古びた設備を使い回すよりも、より整った環境へと譲渡する選択肢が選ばれることもよくある話だ。
 区立からたち図書館は、貯蔵された本が多いことで知られている。その理由は、潤沢な予算に支えられた温湿度管理と、大量の本棚と、縦に広い閉架書庫である。
 最近もまた、設備の老朽化を理由に本棚ひとつが埋まる規模で本を引きとった。受け取ったリストと突き合わせて目録の作成、管理システムへの登録、傷みがあれば補修リストに加えて、と、受け入れには様々な工程がある。
 その大半を、澄が担っていた。突合は多重チェックのために同僚を駆り出したが、それ以外はひとりで作業可能だ。補修の主担当も澄なので、本来必要な補修すべき項目の詳細は省いていい。
 手早く進めた方ではあるが、それでもこの一週間は、閉架書庫の住人と化していた。ため息をついても、唸っても、無論咳をしてもひとり。孤独な作業ではあるが、澄は苦としない。やることが決まっていて、道具も揃っていて、時間も与えられていて。不確定要素や非常識な締め切りに襲われないのならば、淡々と進めればいい。そういった作業は、澄の得意とするところだった。例えば恋人であり同居人であり、幼馴染の英黒斗ならば。自らの扱う書籍の貴重さであるとか、沈黙への抵抗であるとか、忍耐の箍をたやすく外す事象に囲まれて苦しむのだろう。
 適度に休憩を挟みながら、段ボールの奥底から救い出された本の補修を進めていく。作業は順調で、あとは乾燥待ちになったところで、澄は書庫を出ることにした。昼休憩だ。
 事務所に戻り、作業の進捗を上長へ共有する。朝のうちに頼んでおけば弁当が届くのだが、すっかり忘れて書庫に篭もっていたので、食べに出ることにした。
 分厚い上着は自席の椅子に預けて、財布だけ手にして外に出る。
 外の空気は、機械に管理された地下とは別人だ。太陽に温められ、寒気に冷やされ、どこからともなく風が吹いてはものが絶え間なく動いている。目の前を通り過ぎた枯れ葉は、どこまで旅をするのだろう。横目に行き先を確かめながら、澄が辿り着いたのは近所の定食屋だ。表の看板をしまっている主人と目が合う。
「今日の日替わりは秋刀魚だよ」
「ではそれで」
 ひとつ頷いて、店主が中に戻る。追いかけるように店に入り、入り口の扉を閉めた。
 カウンターの隅に座ると、目の前にお冷が差し出された。ありがたく一口飲んで、ほう、と息を吐いた。冷蔵庫からタッパーを出して、秋刀魚を二尾準備する。淀みない手つきをぼんやり眺めていると、不意に店主と目が合った。
「もう一人は元気か」
「はい」
 何年生だったか、大学も三年目になります、なんて会話がぽそぽそと続く。区立からたち図書館には、幼い頃からずっと通っている。近所の定食屋に寄ることもあった。年に数回ほどのペースが澄だけ格段に上がったのは、司書として図書館に就職したからだ。上司に連れてこられたときには、本当に本が好きだなと呆れられたのをよく覚えている。
 おまち、と出てきた秋刀魚定食をありがたく受け取り、いただきますの声とともに箸を手に取った。
 
 秋刀魚を平らげ、支払いまでもをカウンター越しに済ませて店を出る。昼下がりの外は少し暑い。かんかん照りとは言わないが、初夏だの晩夏だのとごねてみれば通じそうな気温だ。
 通りの向こう、散歩を楽しむ親子はどちらも半袖姿。澄は閉架作業に合わせた厚着である。上着がなくとも長袖とカーディガンがあるのだ。じわり、背中から汗をかくのがわかった。腹のカイロが生む熱を逃すようにシャツを揺らし、すぐそこの職場へと足速に向かう。飛び込むように裏口から廊下へと抜け、事務所に着いて一息つく。外との温度差を調節するために毛穴が開く。首の裏に汗が伝う。良くない兆候だ、と経験が囁いた。澄の体は温度差に弱い。食物エネルギーの熱量と、外から浴びた熱でほてっている身体は、これから底冷えする地下空間に篭もる予定だ。柔な対策では負けてしまう。分かっているからこそ、カイロを貼り、分厚い上着で対策し、足下に熱源を置くのだ。
 都度都度休憩を挟み、身体を冷やさぬように作業しよう。そう心に決めて、上着を手に地下へと向かうことにした。
 ところで、澄は本が大好きな司書である。同業者は大抵、寝食を忘れて読書に没頭し、気付けば時が過ぎていた、なんて経験をしたことがある。澄も例外ではない。本に没頭する集中力があり、食欲も眠気も、それらには勝てない証明だ。
 傷んだページを網ではさみ、水に濡らし、土埃やカビを落とす。消毒して乾かし、きっちり揃えて製本し直す。繊細な作業は、集中を必要とする。不意の音で何かが起きてはいけないからと、アラームも着信音も切っている。これが黒斗だったならば、集中が切れる度に休憩を取るのだろう。けれども、閉架書庫で、書籍の補修作業を行っているのは澄である。
 集中が、細く長く、しっかり続く澄だ。
 昼食後で体温が高く、外の気温で汗をかいていたのも良くない。次の休憩で電源を入れようと、足元のヒーターも静かなままだ。 
 ふるり、背中から寒気が走って、ぱちぱちと二度まばたいた。潜めていた息を大きく吐き出して、また吸って。顔を上げて、目の前の時計を見る。手元に視線を落とし、左右の乾燥台の中身を確認し頷いて。
 ついで追いかけてくる寒気から逃げられず、ぶるりと背中を揺らした。
 もう一度時計を見ても、時間は夕方四時。夕焼け小焼けが流れる時間だ。
 ぞわり、寒気は下から上へと走っていく。駆け抜けて消えてしまうならまだしも、痺れのような感触を背中に残していくものだからタチが悪い。腰の辺り、ひんやりとした手で包まれているかのように、熱がうしなわれていく。
 体調不良だ。風邪気味とも言う。これ以上の無理は、発熱を伴った風邪症状の確定演出となる。
 不調を自覚した澄は、手元の作業を引き継げる形に整えていく。具体的には、三日以上放置しても良い状態にするのだ。補修作業を誰かに任せられるならいいけれど、そうも行かないのが現実だ。設備への予算が潤沢な分、人員は少数精鋭となっている。図書館として提供すべきサービスはやはり開架書庫の整理と貸出受付やリファレンスであり、閉架書庫の受け入れは二の次三の次だ。だから、一週間かけて澄が担っていた。
 乾燥台は電源を切っても問題ない。既に処置を終えた紙に抜けがないこと、散らばって悲劇が起きる状態ではないことを確認し、メモを残して閉架書庫を出た。
 事務所に立ち寄ると、あら、と同僚の声がかかった。咲本だ。二年先輩の司書は、返却処理済みの棚から澄の方へと向かってくる。
「おつかれさま、黒井君。下でなにか?」
 初動の作業でいくつか手伝ってもらったので、最近の澄の作業を共有する必要は無い。自席にいない上長との関係も良好で、伝言を託すのにも都合がよかった。
「一冊乾燥中です。本や作業に支障は無いんですが、俺が冷えにやられてしまって。今日は早退して、明日も午後から出ようかと思ってあがってきました」
「今日木曜だっけ。明日も休めば? 体調が戻ったらだけど、シフト上三連休だよ」
「じゃあそうします。伝言をお願いしてもいいですか」
「もちろん」
 頷く咲本を確認して、入り口すぐのロッカーに上着を入れる。鞄を引っ張り出してロッカーに鍵をし、それじゃあ、と部屋を出た。
「お大事に」
 咲本に見送られて、ひんやりした廊下へと出る。裏口から外に出ると、雲ひとつ無い快晴が広がっているのだろう。さっさと帰って寝よう。澄の意思を知らぬまま、太陽が背中を温めるのだった。
 
 じりじり背中を炙られるまま十分と少し。自宅に帰り着いた澄の背には、暑くてかいた汗とはまた違う何かが伝っている。オフィスカジュアルの服を脱ぎながら玄関を抜け、鞄はリビングに放置、じっとり汗の滲んだ下着も洗濯機に放り込んで、寝間着を上の籠から下ろす。洗面所には制汗剤も置いてあるので、そこから汗ふきシートを出してざっくりと身体を拭う。綺麗な下着と寝間着を身につけ、軽くうがいと手洗いをしたら、もう後は寝るだけだ。
 冷蔵庫に何があっただろうか。夜空腹で目覚めたとき何を食べよう。ろくなものが入っていない気がするが、その時はその時だ。補修中の本だって問題はないし、仕事も引き継ぎできる状態にしてあるし。
 黒斗にも連絡した方が良いだろうか。ああでも、寝れば治るし、つまり明日には治っている。黒斗が来る時間までに起きておけば問題ない。それに、弱って寝込む姿はあまり見られたくはない。
 ふらふらとリビングを抜けて寝室のドアを開け、クローゼットの下の方から厚手の毛布を引っ張り出した。そのままベッドに放り投げ、足下だけ整えてベッドに倒れ込む。自身の下敷きとなった掛け布団を救出しつつ、枕元にスマホを置いて、充電コードをつなげて。眼鏡はヘッドボードにあげた。肩まで布団を被ったところで、澄の意識は暗転した。
 

   □

 学生のスケジュールは、そのほとんどが自身でコントロールできるものだ。三年目ともなれば調整も慣れている。周囲の学生と同じように、黒斗も進路に沿って必要な授業を選んでいる。違うのは、入学した時点で進路が決まっていることだろうか。
 大学院へ、修士課程へ進むこと。キャンバスが変わるので、実家から澄の家へと引っ越すこと。両親の理解と恋人の赦しがあるからこそ成立する将来設計は、今のところ問題なく進んでいる。
 引っ越すとは言っても、既に週末は澄の自宅で過ごしている。ひとり暮らしには大きなダブルベッドは、ふたり暮らしを想定して選んだものだし、ロフトにある小さな本棚には、澄と黒斗の愛読書が両方詰まっている。置いたままの着替えだって何セットもあるし、半同棲のようなものだと黒斗は認識している。
 金曜の講義が終われば澄の家で夕食を共にする。土日に勤務があるならついていって一日を図書館で過ごす。月曜は、澄の家から通学となる。このことは学内でも親しい人間には知られていて、よほどのことがなければ呼び出しもない。みんなで遊びに行くとか、そういった思い出になるイベントには呼んでもらえるのでありがたい限りだ。
 黒斗の専攻はスポーツ科学だ。取っている授業も人間の心理や人体の構造に偏っているし、言語の壁を越えられるように外語も必要以上に取っている。全てが身になっているかは自信がないが、とにかく学んでいる真っ最中だ。
「みなさんは今朝何を食べましたか」
 食生活がアスリートへ及ぼす影響について。今日の講義の主題を眺めながら、言われた通りに今朝食べたものを思い返す。澄が家を出てひとり暮らしを始めて半年。互いの実家で夕食を食べることはなくなり、必然朝食は実の母、千奈津の手によるものとなった。具材たっぷりの味噌汁と納豆とご飯。栄養学の観点で見ると何点だろうか。採点しながら、先生の話をメモに残していく。
 そもそも人体が必要な栄養素があり、競技で過剰に消費する栄養を食事で補填する必要がある。アスリート生命を伸ばすためには、若さに甘えた食生活をすべきではない。
「スポーツをしていなくても、食というのは大事な要素ですよ。内容によって健康を支えるか、害するかを左右します」
 所属する部の事を思い出す。毎年プロ入りの選手を数人出す強豪バレー部だ。黒斗は、そこでマネージャーとして所属している。ハードな練習で肉体を酷使する選手達に、栄養士と協力して食事のサポートをしたり、トレーニングの補佐に入ったりと、やりたいことをやって、日々の学びを得ている。
 週末は澄と過ごすので、基本的には休みだ。大会や合宿があれば参加するが、それらの召集がかかるときにはまず「彼氏さんとの時間を奪って悪い」とか「黒井先輩に謝っておいてくれ」とか、謝罪が割り込んでくることになっている。土日休みのマネージャーの事情について、大抵のメンバーは知っている。地元が同じであれば相手も知っているので、謝罪の内容は人それぞれだ。
 明日は、金曜日。午後は早く澄に会いたいので、そもそも金曜午後の授業は取っていない。その分木曜には――つまり今日の授業は詰まっているが、このコマさえ終われば後は帰るだけだ。
 帰りは大学付属の図書館に寄るか、マネージャーで集まって来週の栄養士への相談内容を決めるか。部活自体は休みなので、過ごし方は自由だ。ぼんやり計画を練っている内に授業が終わり、部屋から追い出される。人の流れに乗って廊下を抜け、外に出て。足先はなんとなく奥の方、英知の集合、図書館へと向く。
 そんなときに、ふと電話がかかってきた。
 区立からたち図書館。澄の職場だ。
「はい、英です」
「お世話になってます咲本ですー。黒斗君今良いかな?」
 咲本は、澄の先輩にあたる司書だ。赴任して早々地元の男子学生二人がいちゃついているところを目撃した不憫な人である。特にからかうだとか邪魔をするだとか、そういうこともなく、微笑ましく見守られているようなイメージがある。この話を澄にしたら苦々しい顔をしていた。実際のところは知らないが、実害は受けていないので問題ない。
 図書館の番号から電話がかかってくると言えば、延滞本の返却催促か、予約本が揃ったかのどちらかだ。黒斗にはどれも覚えがない。
「大丈夫です。俺なんか予約とか入れてましたっけ?」
「あー、予約ね。今度東尾先生の新作でるけど予約する?」
「お願いします」
「了解。じゃあ入れとくね。本題はそっちじゃなくてね、黒井君なんだけど。彼から連絡来てたりする?」
 えっと、と答えあぐねて。立ち止まって電話の画面から通知を確認してみるが、特に澄からの連絡は無い。
「ないですね。すみ兄なんかありました?」
「今週ずっと地下作業してたんだけど、体調崩したから帰るってさっき早退したんだよね」
「え」
 なんかしれっと一人で寝てそうな感じだったから共有しておくね、と咲本の言葉に覚えたのは、怒りか戸惑いか、それともなんだっただろう。答えるよりも先に足が動く。踵を返して正門のほうへと歩き出した。
「じゃあ伝えたから。予約もしとくね」
「ありがとうございます」
 お礼を言って、それから。どこに向かうべきだろうと考えつつ正門を抜ける。通りをまっすぐ抜ければスーパーがあるし、右手に抜ければ附属病院がある。規模は大きいし、母達の知り合いもいるし、なにより部活で世話になっている栄養士が属している。黒斗にとって頼れる大人だ。
 病院へ向かう黒斗は、自然と走り出していた。 

 大学の附属病院には、相談窓口がある。患者本人や身内をターゲットとしているが、対象者でなくても相談自体は可能だ。入院の必要事項や医師へのクレーム、食事指導に支払い相談など、対応内容も多岐にわたる。黒斗も何度か世話になったことがある。患者でも身内でもなく、バレー部員として。
「すみません、吉村先生はいらっしゃいますか」
「はいはい、いますよー。ちょっと待ってくださいね」
 窓口に常駐する受付はいない。代わりに呼び出し用のベルがあり、それを鳴らして呼びかければ返事があった。吉村だ。書類を手にしたまま出てきた彼は、黒斗を見ると表情を変えた。
「どうしたの。柴田さんになにかあった?」
「ああいや、違うんです。俺、じゃなくて、俺の連れが」
「ああ、恋人さん。ちょっとそこ座ろうか」
 促されるまま、受付そばのテーブルに座る。ぱらり、卓上に置かれたのは、誰かの献立のようだ。黒斗の視線を追った栄養士は、明日退院する患者さんのだよ、と補足する。
「忙しいのにすみません」
「大丈夫大丈夫。で、恋人さんがどうしたの?」
「なんか、職場から連絡あって。体調崩したから早退するって」
 大変だね、と差し込まれた相づちに一息ついて、汗がこめかみを伝う感触がした。袖で額を拭うと思ったよりじっとりしていて、自分の状態に驚いてしまう。ちょっと焦ってちょっと走っただけなのに、身体は想定以上に動転している。黒斗の様子を観察していた吉村は、置いたばかりの献立案を持って立ち上がった。視線で追いかけた黒斗に頷いてみせる。
「お水持ってくるね。ちょっと待ってて」
 腰を落ち着けて、深呼吸をする。深く息を吸って、吸って、吸って、吐く。落ち着いて考えよう。
 仕事大好きな澄が早退したと聞いて思わず走ってきてしまったけれど、そもそも具体的な症状を何も知らない。咲本から聞いた情報では、体調不良を自覚して、一人で帰宅する判断を下している。
 無事に帰れただろうか。
 タクシーは呼ばない限り捕まらないので、徒歩かバスになる。どちらだろう。外は先週より暑いから、鼻がぐずっていてもおかしくない。春先や夏の終わり、寒暖差にやられた澄はぐずぐずと鼻を鳴らす。秋になったかと思えば夏に戻った今日のような天気では、暑くてやっていられないはずだ。
「どうぞ」
「……あ」
 かたん、と紙コップが置かれた音で顔を上げる。バインダーを手にした吉村が、正面に戻ってきていた。手に取って、水を飲む。思っていたより喉が渇いていたようで、一気に飲み干してしまった。空っぽのコップを卓上に戻す。
「落ち着いた?」
「はい。……すみません、急に来て」
「電話だけだと焦るよねえ。若者って感じで羨ましい。具体的な症状は聞いた?」
「いいえ」
「思い当たることは? 例えば、うーん、仕事で出ずっぱりとか」
 澄の仕事は、正規雇用の司書だ。区立からたち図書館に務めていて、シフト通りに窓口にも座るけれど、メインはレファレンス担当だ。先週聞いた話の通りなら、ここ数日は閉架書庫で作業をしているはずだ。隣県から受け入れた貴重な書籍の補修と整理を一人でこなしていると聞いた。ダブルチェックの相方は咲本で――、閉架書庫は、そもそも寒い。底冷えするからとカイロを買い込んでいたことも知っているし、上着を買って贈ったこともある。
「……冷え、たのかも」
「なるほど? 朝夕は冷えるけど昼は暑いし、自律神経やられちゃうよね。ちなみにさ、その人のお家に毎週通ってるわけだけど、家に何があるかわかる?」
 エナドリとか保存食とか、と続いた補足に澄の家を思い浮かべる。リビングに食料類はなくて、寝室には保存用の飲料水がある。台所にあるのは、その日使う食材と、調味料と、それから麦茶。エナドリとかはなくて、栄養ドリンクとかもない。おやつもないし駄菓子もない。酒も置いてないし、つまみも常備していない。ロフトには別途いろいろあるけれど、あそこは澄の城なので詳しくは知らない。
「あんまりものはないかもしれません」
「うんうん。どうやって帰ったかは分かるかな」
「歩きかバスです」
 黒斗の答えに頷いた吉村が、重ねて問いかける。
「帰り道にお店はあるかな。ドラッグストアや薬局が良いけど、スーパーでもいい」
 大学から澄の家へのルートを思い返す。図書館を経由して、大通りを抜けて、路地に入ってすぐのアパートまで、めぼしい店は見当たらない。首を横に振れば、吉村はひとつ頷いた。
「今からお見舞いにいくんだよね?」
 黒斗の返答を待たずに、じゃあ決まりだ、と吉村は言う。バインダーの白紙は白紙のまま。握っていたペンはくるりと彼の手の中で踊る。
「なんか食べるものを買っていこう。多分冷蔵庫空っぽだし、恋人くんが食べなくてもきみが食べれば良い。こういうとき何食べるのかは聞いたことある?」
「ないです」
「相手方のご両親と連絡はつく?」
 間髪入れずに頷けば、栄養士は安心したようにペンを握りなおして白紙にいくつか書き込んだ。食べ物、薬と書き込まれる。前者の要素には下線が引かれて、要確認とメモが追記された。
「弱ったときに何を食べていたか、市販薬を選んでいたら何を飲んでいたのかを聞いて、それから買い物にいっておいで。ちなみに俺はおにぎり食べて栄養ドリンク飲んで風邪薬飲んで寝ます」
「なるほど」
 栄養ドリンクのお湯割り、と書き足されたメモを差し出して、吉村は黒斗の表情を見た。飛び込んできたときより、随分と顔色が良い。不安なことがあれば不安がるべきだ、なんて、何かと不調を隠したがる選手を思い出す吉村のことなど知らないまま、黒斗は立ち上がる。
「先生、助かりました」
「はーい。お大事にね。英君はまた来週、部活でね」
「ありがとうございます。失礼します!」
 座っていた椅子はきちんと戻して、早足で相談コーナーから飛び出す。鞄に紙を入れて、代わりにスマホを出して外へ向かう。病院の敷地から出て向かう先は最寄りのスーパー、電話をかける先は澄の母である。

 プルルルル、プルルルル、呼び出し音が二回続いた後、プツンと音が変わる。電話に出る音だ。
「もしもーし。黒斗?」
「え、母さん?」
 電話に出たのは母だった。澄の母の羊子ではなく、黒斗の母の千奈津である。
「そうよー。間違えてるかもって羊子から受け取ったんだけど、私? 羊子?」
「あ、えっと」
 澄と黒斗は、二家族の二人の母親、両方に育てられた。どちらかが夜勤の夜はどちらかの家で過ごすルーチンを、物心ついてから十年以上過ごしている。体調を崩して寝込んだら自宅の自室で過ごすけれど、母達はちゃんと看病しに来てくれた。インフルエンザにかかったとき、黒斗の面倒を看にきた羊子のこともなんとなく覚えている。
「どっちでもいいかも。すみ兄が熱出したとき、何食べてたか知ってる?」
「うどん。卵とじのやつ。どうしたの、澄ちゃん倒れたりした?」
 黒斗はうどん、卵とメモに追記する。母の問いには短い否定を返して、それから改めて回答する。
「体調崩したから早退したって連絡が来た」
「あー。なるほどね」
「様子見に来てくんない?」
「今日は父さんとすき焼きだから無理。――ちょっと羊子、澄ちゃん寝込んだって」
 あらそう、と柔らかい声が遠くから聞こえて、ほら返すからと母の声が遠くなっていく。スマホを返したのだろう、電話の向こうから受け渡しの音が響いてくる。
「はーいもしもし。黒斗君元気?」
 羊子の声は朗らかだ。いつものんびりとしていて、焦ったり怒った姿はほとんど看たことがない。じゃあ行くわね、と母の声が遠くから聞こえて、はあい、と答える羊子の声も混ざり込む。いつも通りの二人を電話越しに感じて、一息ついた。
「羊子さん、えとね、俺は大丈夫。すみ兄はわかんない」
 同僚の人から電話が来て、と事情を説明すると、羊子は焦った素振りもなくふんふんと相づちを挟む。附属病院の相談窓口に行って、母から療養時の食事を聞いたところまで説明すると、相づちは間延びしたものになった。
「なーるほどーぉ」
「今からいこうと思うんだけど、俺何したら良い?」
「多分一人で寝てるから、お部屋の加湿だけしておいて。喉痛めちゃうから」
「薬とかは?」
「うちに常備してたやつメールしとくわねぇ。食べ物は何でも良いわよ。うどんとか雑炊とか、ザ病人食って感じなら全部行けるから」
「なんか入れた方が良い具とかある?」
「余ってる野菜あったら入れちゃって」
「そんなんでいいの?」
「いいのよ。寝れば治るし」
 寝れば治る、と復唱すれば、けらけらと羊子が笑うのが分かった。看護師とは一体、と疑問が思わず口から零れていく。
「看護師は私の職業ね。千奈津ちゃんはお医者さん」
「知ってる……」
「大丈夫。澄ちゃんが自分で休むって判断したなら、その程度だから。寝て起きて、明日になったら平気になってるわよ」
「……うん、ありがと、羊子さん」
「うちの子をお願いねえ」
 すぐにメールするわね、と言い残して電話は切れた。吸って、吐いて、吸って、吐いて。スーパーはすぐそこで、手にしたままだったメモは少し汗で湿っている。鞄の中身はほとんど空っぽで、手にしたスマホの充電はそこそこ。太陽はいつの間にか傾いていて、横を通り過ぎていった風は汗を冷やして体温を奪っていく。
 画面にメール受信の通知が来て、中身を確認する。市販薬の名前が二つ載っていて、鼻水ひどいときはこっち、とメモもある。追って届いたメールには、ひとり暮らしで食事が疎かになっている可能性の指摘がある。今日の講義で似たような話を聞いたばかりだった。確かに、冷蔵庫は大抵空っぽだ。澄は衣食住の三要素なら、まず食から手を抜く人間だ。日持ちのする食材も買っておいた方がいいだろう。
 これだけ分かれば買い物には十分だ。スーパーに向かって歩き出す。首筋を抜ける風が冷たくて、ふるりと身震いした。

 冷凍うどん、卵のパック、安かったサツマイモとカボチャ、葉物がないのでついでに水菜。あとは、なんとなく心細いので桃の缶詰も買い足した。スーパー近くの薬局で指定の薬と、栄養士の言葉を思い出して栄養ドリンクも買った。
 家の電気は消えていた。勝手知ったる澄の家、玄関から台所へ向かい、買ってきたものを作業場に置いて手を洗う。顔を洗おうと洗面所に移動する。顔を洗ったついでにうがいをし、脱ぎ捨てられた澄のシャツを確認した。洗濯機の口からはみ出ている。ひんやりしているのは汗で湿っているからだろう。中に入れて、顔を拭ったタオルも入れて、洗濯機の電源を入れた。
 洗剤と柔軟剤を入れて、時短コースで回す。いつも少ない量で回すから、標準コースじゃなくて時短コースを選ぶ。そんな、日常の仕草は知っているのだけど。
 そんなことを考えながら、台所に戻り、買ってきたものを整理する。野菜室は空っぽで、ドリンクホルダーにペットボトルのお茶があるだけで、中身はほとんど無い。買ってきたものを詰めても、半分に満たなかった。
 人間の食は大事ですから、と教師の声が頭の中でよみがえる。
 食を疎かにした家主はどこだろう。寝室の扉は閉まっている。音を立てないように扉を開けると、すやすやと寝息を立てているのが分かった。中に入ると、きっちり布団を掛けて、深く眠っている。秋口にしては重たい布団を選んでいる。羊子の「寝てると思う」という言葉がくるりと目の前を回っていった。
 部屋の隅にある加湿器からボトルを出して台所へ戻る。水を満たして寝室に戻り、加湿器の電源を入れる。どぽどぽと水がボトルから落ちていく音がして、追いかけるように布をぶん回す洗濯機の音が聞こえてくる。
 澄が起きる気配はない。
 もう少し寝ていそうだ、と当たりをつけて台所へと戻った。電気をつけるのはここだけだ。澄の目が覚めたら、うどんを作ろう。その時に煮込む具材を、と根菜を切り分け、一部はレンジにかけて蒸しておく。残りは適当な大きさに切り分けて冷凍庫行きだ。うどんの隣、大きなスペースにサツマイモとカボチャを放り込む。
 部屋の掃除をして、見つけた救急箱に買ってきた薬を入れ、封の開いている薬を一シートと、体温計を拝借した。洗濯した衣服を干して、澄の着替えを準備して。黒斗自身も軽くシャワーを浴びて、ドライヤーまで済ませたところで寝室に戻る。
 部屋に椅子はないので、澄の腰のあたり、ベッドの空いたスペースに座ることにした。
 伸びている右手に触れる。澄の手は、黒斗よりも温かい。普段なら逆で、冬になれば澄専用のカイロとなる手のひらだというのに、今日はカイロにも冷えピタにもなれない。体調不良の寝顔は初めて見る。恋人を見下ろしながら、無力を嘆いてため息をついた。
 穏やかな寝息を聞きながら、寝顔を眺めながら。黒斗にできることは、澄が起きるのを待つことだけだった。

   □

 目が覚めたら、そこには黒斗がいた。澄の寝起きには情報量が大きすぎて処理ができなかった。ぎしりとベッドが軋む。黒斗が動いた音だ。熱が出て妄想でも看ているのかと思ったが、どうやら現実らしい。
「おはよ、すみ兄」
「…………こくと?」
「うん、俺だよ。はい、熱測って」
 身体を少し起こす。差し出された体温計を受け取って、言われるがままに脇に挟む。ぱちぱち、瞬きを二度したところで、眼鏡のない世界がぼやけていることに気がついた。ヘッドボードを振り返ろうとすると、はい、と声がした。目の前に眼鏡が広げられていて、あとは澄が動きを止めるだけだ。大人しくされるがままにしていると、鼻に眼鏡の鼻パッドが乗る。視界が明瞭になった。
「……ありがと」
「どういたしまして。おなかすいた? うどん食べる?」
 黒斗の問いに頷く。ぴぴ、と体温計が鳴った。
「卵と芋とカボチャ乗っけるけど大丈夫?」
 体温計は回収されていく。問いには頷いた。
 着替え置いてあるから、と指された枕元を見やれば、スマホのそばに寝間着と下着が一揃い、それから乾いたタオルが置いてあった。
 どうやら看病されている。現実を理解した澄は、確認するようにスマホのスリープを解除する。時間は午後七時を過ぎてすぐ。曜日は、確かに木曜だ。金曜ではない。
 黒斗が来るのは、明日だったはずだけれど。疑問符を浮かべながら、素直に着替えることにした。

 寝室からリビングに出ると、卓上にはフルーツが置いてあった。澄の定位置に置いてあるので、恐らくは食べていいものだ。
「すみ兄体調どうー? 一人前食べれる?」
 台所からの問いに振り返ると、小鍋を手にした黒斗が澄を見つめていた。
「……具が一杯だと無理かも」
「じゃあ残った分俺が食べるね。その桃も食べていいよー」
「分かった」
 添えられているフォークを手にする。よく冷えた桃は、ほてった喉を優しく通り過ぎていく。しんどくてもこれなら食べられそうだ。
 なんとなく、これを黒斗は食べていたのだろうな、と思った。こういうとき、澄は分かりやすい病人食を食べているが、黒斗が食べているものは知らない。千奈津からは小食になると聞いていたけれど、こんなにも量と中身が可愛らしくなるのは知らなかった。
「はい、おまたせー」
 鍋敷きと小鍋、鍋の中にはうどんとお玉と菜箸が第一陣として届く。次いで取り皿とレンゲと箸と水。黒斗ははす向かいに座って、澄の顔を覗き込んだ。
「……?」
「顔色はいつも通りかな。うどんよそっちゃうね」
 澄の返答を待つことなく、黒斗はお玉と菜箸でうどんを取って澄に寄越した。箸とレンゲも受け取った澄を見ては満足げに微笑んでいる。
「いただきます」
「どーぞ。残していいからね」
 英家のうどんは、市販のスープに日本酒を足している。柔らかい口当たりと、大ぶりな卵はなんだか安心する。煮崩れそうなサツマイモとカボチャがずっしりと胃に溜まっていく感触がする。小鍋から一杯、二杯とお代わりを繰り返し、用意された分をしっかり食べきったところで薬が差し出された。添えてあるのは、水が入った透明なグラスと、黒のマグカップ。中身はよく分からない。
「薬と、これなに?」
「栄養ドリンクのお湯割りです」
「……栄養ドリンクの」
「お湯割りです。世話になってる栄養士さんに聞いた」
 どうぞ、と差し出された薬を水でのみ、ついでに栄養ドリンクのお湯割りとやらを飲み干す。普段ならきつい酸味も、お湯で割ってある分ぬるく柔くなっている。すんなり飲み干して一息つくと、黒斗と目が合った。心配を瞳一杯に浮かべている。
「大丈夫そう?」
「うん。……寝れば治るから、大丈夫」
「それ、羊子さんも言ってた。慣れてたりする?」
 仕事にも慣れたからと一人暮らしを始めて半年。季節の変わり目や立て込んだ仕事に身体が弱ることはままあって、それらは休日や早退に合わせてしっかり寝ることで倒してきた。ある程度の助言は母からもらっているし、母が言うなら間違いない。普段の様子は頼りないが、あれでも立派に看護師を務めている。
「そんなには」
「そっか。明日は仕事?」
 心配そうな問いに、首を横に振った。咲本に伝えてあるから問題ない。
「休みになってるはず」
「それが良いと思う。片付けとか俺がやるし、すみ兄は寝てもらおうかな」
 目の前から小鍋が消え、次いで取り皿が消えて。桃が載っていた皿も、マグカップもコップも全部回収されていく。黒斗の食事はどうするんだろうとか、そもそも木曜なのにどうしてとか、聞きたいことはいろいろあるのだけど。
「寝れそう?」
「ん……、寝る」
 熱を帯びた身体は、臓腑の温もりに釣られて眠気を覚えた。これを逃がす手はないので、ふらふらと寝室へと向かう。後ろについてきた黒斗の気配を感じる。ドアを開けると寝室はしっかりと加湿されていて、ベッドに潜り込めばそれで良かった。眼鏡をヘッドボードに置いて、電気は黒斗に任せればいいので放置して、ほう、と息を吐く。
「電気消すよ。なんかあったらリビングにいるし起こして」
「ソファ、下にブランケットある」
「ありがと。それ使って寝るわ。おやすみ、すみ兄」
「うん、おやすみ」
 目を瞑る。部屋の電気が暗くなる。真っ暗な空間で、額を撫でる指先を甘受する。冷たくて気持ちが良い。ぐらついていた意識がゆっくり安静に傾いて、解けていくのが分かる。おやすみ、と口にした言葉は届いていただろうか。黒斗の体温を感じながら、澄は眠りに落ちた。
 

   □

 ヴヴヴ、とアラームが鳴って黒斗は目が覚める。見慣れた天井と朝のアラームが噛み合わず、ぱちくり瞬いて身体を起こす。ソファそばのテーブルに置いてあるスマホには、確かにアラームの画面が表示されている。朝六時、一限に間に合う時間のいつものアラームだ。澄の家に居るのに鳴るなんて、と思考停止。すぐに昨夜のことを思い出して、一限に出るべく起きることにした。洗面所へと向かう。
 鏡の前に立って、手早く顔を洗う。水は氷のように冷たい。寝間着の裾で顔を拭い、そのまま脱いで洗濯機へと放り込む。置いたままの着替えでは肌寒いだろうか、朝夕は冷えるけれど昼間ならば、なんとかなりそうだ。朝は澄のカーディガンを借りよう。
 家主の体調はどうだろうか。昨日は大人たちのアドバイスを受けて、それから買い物をしてここに来た。寝ぼけたままうどんを平らげてまた眠っていたけれど、いつものキレはなかった。あんなに安定していない澄を見たのは初めてだった。
 七分袖のシャツを被り、寝室の様子を覘きに行く。途中、台所に寄って非常用のストックからスポーツ飲料を取っていくのも忘れない。
 寝室の扉を静かに開けて入る。ぴかぴかと光るのは加湿器で、水が尽きたらしい。回収するついでに寝顔を確認するけれど、すっかりよく眠っている。仕事は休みだと聞いているから、アラームも止めた方がよさそうだ。スマホのロックを勝手に解除してアラームを切っておく。通知欄によく休んでねと上司から連絡が来ているのが分かって安心した。伝達ミスで無断欠勤扱いされてはゆっくり休めないだろう。
 台所へ戻りボトルを満たし、寝室へと戻る。加湿器にボトルを預けて、とぽとぽと水が落ちていく音を聞く。合間に衣擦れの音がしてベッドを見やると、澄がぼんやりと目を開けていた。
「……こくと」
「おはよ」
「おはよう」
 起き上がろうとした病人に、枕元の体温計を押しつける。大人しく測る様子や顔色はすっかりいつも通りだ。ぴぴ、音が鳴ってすぐに提出された体温計は、平熱を指している。本当に、寝たら治るらしい。それだけ初期段階に対応できているのだろう。
「俺は今から学校行く準備するけど、すみ兄は休みの許可出てたから寝てね」
 う、なのか頷いたのか分からないが、澄が手を伸ばす。ひらひらとした手招きに誘われて近寄れば、手のひらが黒斗の頭に乗っかった。がしがしぐあぐあと揺らすのは、撫でているつもりだろうか。熱が地肌に伝って心地良い。
「いってらっしゃい」
「ん。おやすみ」
 澄に見送られてリビングへ戻る。冷凍した野菜と水を小鍋に入れて火にかける。沸騰したら適当に味をつけて、汁椀に軽く注いで朝食とする。ゆるめのジャージから着替えるのと一緒に、カーディガンを拝借した。澄が大きいと言っていたから、黒斗には丁度いいはずだ。
 昨日と中身の変わらぬ鞄を手に、家を出る。
 澄の家から大学に行くとき、つまりは月曜日のことだけれど、授業は午後から組んでいる。夢うつつの澄を眺めていたいし、出勤するならついていきたい。どうせ大学に行くまでの通過点にあるのだし、ぱっと本を借りられるなら最高だ。月曜は午後から、金曜は午前まで。
 月曜の朝から歩く朝の大通りは、なんだかくすぐったかった。
 
 一限の半分を過ぎたところで、講師が教室から出て行った。家族からの連絡が入ったらしい。まだ小さい子供が居たような、なんて考えていると紙束を抱えて戻ってきて、ここから休講にすると宣言が出た。代わりに授業の内容をまとめたプリントが配られる。前方の台に残された紙を取りに席を立つ。この人には家族から連絡が来るのか、と去って行く講師の背中を見送った。
 半数が突発的に生まれた空きコマを堪能すべく教室を出て行く中、席に戻った黒斗は思考に浸っていた。脳裏を占めるのは、澄のことばかりだ。
 黒斗は、澄とずっと一緒にいる。幼馴染みで、実は初恋の人で、今では恋人だ。両家族にも認知されている。学年は違えど帰りは一緒だし、互いの自室で一緒に寝ていたし。長い時間ずっとそばに居るので、何でも知っているような気になっていた。
 けれど、実際は違う。
 学校が被ったのは小学校の二年だけ。中高は一貫校なので大枠は同じだけれど、黒斗が中学一年生の時、澄は高校二年生だった。二人の間に恋人というステータスが増えた中三の夏、澄は無事志望校に入学し、初めての夏を迎えていた。
 体調不良のときに食べるものも、選ぶ薬も知らない。微熱がある時の澄も初めて見た。疲れているのか、身体を治すのにリソースを割いているのか。どちらかはわからないが、なんだかふわふわとしていた。
 そもそも、咲本から連絡がなければ早退したことも知り得なかった。
 本来なら明日の夕方から家に行くところだけれど、その時には平気な振りをするつもりだったのだろうか。隠せるなら隠してしまいそうな節がある。黒斗としては不本意だ。病み上がりに無理をさせたくない。いつだったか、なんとなくと言って早寝していたこともあったけれど、同じような理由だったらどうしよう。
「うー……、くそ」
次に同じ事が起きて、ただの風邪じゃなくて、インフルエンザだったら。黒斗は、母伝手に事態を知るのだろうか。それともまた、職場から?
 
 澄の知らない側面が、まだまだある。全部を知りたいとは言わないけれど、黒斗に支えられる範囲があるのなら、弱さを見せて欲しいと思うのはエゴだろうか。
 疲れたなら頼ってほしい。何もなくても甘えてほしい。
 澄にとっての一番が、好きな人も、頼る人も、自分であってほしい。
 一番に知らせてほしかった。自分だって、澄のことを甘やかしたいし、助けたいし、支えたい。子供じみた独占欲なのだと分かっているから、むやみに叫んだりはしないけれど。心配する権利がほしいなあ、と呻くのだった。

   □

 寝起きのまま、匂いにつられてたどり着いたのは台所。流しには空の汁椀だけがあって、コンロに小鍋が残されている。澄をつり上げたのはこれだろう。
 さつまいもとかぼちゃが半透明のつゆに浮かんでいる。小指をつけて味を確認する。少し薄いけれど、病み上がりの澄には丁度いい。ここに米を入れて雑炊にするもよし、うどんを入れてもよし。米の在庫は記憶にないので後者だ。
 黒斗が買ってきたうどんは冷凍冷蔵どちらだろうか。冷蔵庫を開けると覚えのない卵がある。一つ取って、今度は野菜室。空っぽだ。最後に冷凍庫の扉を開けると、切り分けられた根菜とうどんが寝そべっていた。
 冷凍庫からうどんを出して、袋のままレンジに放り込む。レンジのデフォルト最大火力で時間は一分半。ボタンを押し込んでスタートさせる。
 鍋へと向き直り、温めるべく火にかけた。流しに残った汁椀を軽く水で洗って、そこに卵を割り入れた。軽く混ぜておく。レンジから出てきたうどんを鍋に入れて、大体馴染んだところで溶き卵を流し込む。あとは火を止めて、定位置に戻っている鍋敷きとともに、リビングへ。
 鍋から直接食べても怒られない環境は、とてもありがたい。箸とコップのためにもう一往復して、ついでに寝室に戻ってスマホを確認した。メッセージは通知がいくつか。上司から有給承認の連絡と、咲本からの体調確認。それから、黒斗に連絡をしたという自白。昨晩目を覚ましたら黒斗がいたのは、どうやら咲本が一報入れたかららしい。いらぬ心配をかけてしまったし、看病させてしまったのも申し訳ない。
『一限があるので出てます』
『帰るくらいにまた連絡します』
 その黒斗は、書き置きのような内容だ。一度起きたときのぼんやりとした記憶とメッセージでなんとなく現状を把握した。黒斗はうちから大学に行ったらしい。返事の代わりにカメラを起動した。鍋敷きの上、卵とじうどんとなった小鍋の中身を撮って送る。一口食べたところで嬉しそうなゆるキャラのスタンプが送られてきた。どうやら意図を汲むことには成功したらしい。お気に召したようでなによりだ。
 冷凍うどんはどうしてこんなにつるつるなのだろう。製造方法か、保管方法か、それともレンジで温めたからなのか。不思議な小麦粉の塊を食べながら考える。答えは出ないけれど、自分のセンサーが元気になったことは分かった。人間の三大欲求よりも、澄の知識欲は幅をとっている。
 世の中にはたくさん気になることがあって、代わりに調べてくれる人が居たら、きっと嬉しい。その、調べてくれる人になりたくて司書になったといっても過言ではない。レファレンスサービスには老若男女様々な人が訪ねてきて、蝉はどうして死ぬのかを調べたいとか、この町の歴史を知りたいだとか、それぞれの疑問をお裾分けしてくれる。聞いてみれば確かに気になることばかりで、仕事として調べながら知識欲を満たすような、そんな生活を送っている。
 仕事は有給で、ついでに明日明後日とシフト上休みになっている。三連休だ。家事はため込んでいないし、洗濯はどうやら黒斗が回して干してくれている。あとは取り込んでクローゼットに突っ込むだけだ。掃除機をかけて、寝室の空気を入れ換えて。
 あとは何をしようか。うどんを片付けたので汁を飲む。さっぱりした味付けは、澄の知らないものだ。充実しているとは言いがたい調味料たちでどう作ったのだろうか。適当に割引品で済ませた覚えがあるので、賞味期限が怪しい気がしてきた。冷蔵庫は万能ではないし、暗室もまた同じ。湿気対策が万全かと言われれば否だ。
 台所にある食品調味料その他諸々の賞味期限を確認して、あとは。
 秘密基地の掃除をしよう。
 澄の家にはロフトがある。手前は広々した空間で、奥にはちょっとした収納がある。ここを澄は、秘密基地と定義していた。非常食や水、ケトルを常備して、好きなだけ好きな本を置いて、柔らかいラグとビーズクッションに身を委ねて、必要ならブランケットを持ち込んで、そのまま眠る。黒斗も時折ここで眠っている。
 夕べはリビングのソファだったらしく、籠に入れていたはずのブランケットがぐしゃりと腰掛けている。これ一枚で眠れるのは健康の証だ。畳んでソファ下の籠に戻す。そうすると、まるで始めから来訪者はいなかったみたいな部屋になる。春になれば黒斗が引っ越してくる。きっとものが湧き出るように溢れていくのだろう。それもまた、二人暮らしの醍醐味だ。
 寒くなってきたから、ヒーターを出す。出しっぱなしの扇風機と入れ替えだ。ついでに羽の埃を取ったり、整備もしたほうがいい。ティッシュ類は在庫があるだろうか。乾麺や乾パン、ゼリー飲料や栄養補助系のスナックも賞味期限を確認したい。ある程度は消費期限だろうか。
 それが終わったら、本棚の入れ替えだ。取っては入れを繰り返しているうちに秩序を失った本棚を整理したい。春を見越したのかなんなのか、黒斗が置いていく本も増えた。それらを入れるスペースも必要だ。本棚自体をもう一台増やすことも考えた方が良さそうだ。
 鍋に口をつけて、つゆを一気に飲み干す。開いたところにコップやら箸やらを放り込んで台所に戻った。

 缶詰が増えていたコンロ下の収納を経て、冷蔵庫の中身を確認する。しばらく空だったボトルに麦茶が作ってあった。存在を確認した卵とそれ以外には、恐らく増えていない。冷凍庫にはうどんが増えていて、その隣にはジップロックが二つ転がっている。中身はそれぞれかぼちゃとサツマイモで、昨日の日付が書いてある。丁寧に下処理をしたあとのようで、しばらく見ていない英家の収納を思い出した。我が家はあまり、ラベリングをしていない。
 食器棚の整理や流しの水垢退治を経て、家中に掃除機をかける。ついでに寝室の窓は開けておく。一晩加湿した部屋なので、窓を開けた瞬間に空気が美味しく感じた。晴れているので、掛け布団と毛布も干しておく。シーツを引っこ抜いて、替わりのものを投げておいた。ベッドマットも立てかける。窓を閉めるときにセットすればいい。
 細々とした家事の手抜きを潰したり、やっぱり目を瞑ったり。端から端まで掃除機をかけて排水溝を綺麗にして、一息つく。そのタイミングで通知が鳴ったのでスマホを手に取った。
 
『大丈夫そう? 熱出たりしてない?』

 黒斗からのメッセージが届いた。心配が滲む文面だ。

『微熱も消えたし、部屋掃除する元気もある。大丈夫』
『帰りスーパー寄るけど希望ある?』

 返事をして、買ってきてもらうものを思い出す。ボトルに半分残っているめんつゆが、期限的にはもう半月でご臨終だったので、それも忘れない。水回りのネットみたいな消耗品は足りていたので、あとは冷蔵庫だろうか。今日を含めた三連休、黒斗と二人で食べるには心許ない。

『何でも食べれる。葉物と魚欲しい』

 ついでにめんつゆも希望して、即座に既読がつくのを確認した。講義は終わったのだろうか。画面を見る生徒に優しい先生であればいいけれど。寝室に戻り、ベッドマットを定位置に戻す。シーツを全体に被せて、網戸を開けてベランダから布団を回収する。抱えた時に、太陽の香りがした。実態はダニが焼けた匂いだとかなんだと聞くが、不幸になる事実には見ないふりをする主義だ。ベッドの上に適当に広げて、ベッドメイキングの完了だ。美しくないと言われても文句は言えないが、そもそも自分が寝るのだから拘る必要も無い。
 寝室の窓を閉めて、次はロフトだ。
 扇風機を分解して羽を拭き、埃を取って元に戻す。押入れの中からヒーターを出してきて、扇風機跡地に設置した。扇風機をさはヒーター跡地へ引きこもりだ。そのままの流れで押入れの中をチェックする。大抵のものは非常用と銘打っているだけあってまだ持つが、スナックは微妙なところだ。どうせ次の入れ替えの予定もないし、といくつかポケットに入れて下に下ろすことにした。
 本棚の中身は、一人で入れ替えるには量が多い。床に増えているのは過半数が黒斗のものだし、今後のためにも手伝わせた方がよさそうだ。本棚のルールが分からないから床に置いているのだろうが、甘やかすと面倒なことになる。
 背表紙を斜め読みする。専門分野の本だろう山があって、ひっそりと影に小説の山もある。知らない作家だ。ひとまず本棚に空きスペースを作り、それらを納めていく。これで分かる靱帯の全て、なんて帯を見ても検討がつかない。そもそもの前提知識が澄にはない。
 澄が就職し、黒斗が大学生になって三年。いつの間にか、澄が知らなくて黒斗が知っていることが増えている。人間には恐ろしいほどの情報が詰まっていて、表出するものはほとんどない。その上で分かりあいたいと思う人の未知の領域は、どうにも眩しくて仕方がない。
 一通りロフトが片付き、安心できる秘密基地になったところでリビングに降りた。時刻は昼を回ったところ。もう少しすれば黒斗が帰ってくる時間だ。ピコピコ光るスマホを確認する。黒斗から、二つのメッセージが届いていた。
 
『心配したので、帰ったらお説教です』
『買い物了解』

 どうやら怒られるらしい。何を怒られるだろう、なんて考えなくても分かることだ。
 黒斗の大学での様子や、学んでいることを、本人から聞かされなければ知る術がないのだ。逆も然り。澄から伝えなければ、黒斗は澄の日常を知る術がない。澄は体調を治すために寝込む姿を、黒斗に見られたくないと思った。だから連絡をしなかった。けれど黒斗は、澄が早退したと咲本から連絡を受けている。澄本人ではなく同僚から。そもそも咲本に病状を説明していないので、黒斗にはひどく曖昧な情報しか伝わっていない可能性もある。
 恋人の体調不良を、他人伝手に知るなんて、黒斗は嬉しくない。そもそも寝れば治るなんて言っても、黒斗は素直に引き下がらない。何にもならなくったって同じ部屋で面倒を看ようとする。
 黒斗はもう、澄が守ったり導いたりしなくてはならない子供ではない。自らの将来を選び、そのために学んでいる。澄の知らないたくさんの事を、黒斗は知識として蓄えている一人の人間だ。
 自分のために、黒斗の手を煩わせるのが嫌だった。なんとなく、隠していたかった。黒斗には頼られていたい、年上のプライドが出した結論が、黒斗から心配する権利を奪った。
 それに。
 同様の状況になれば、澄だって心配するし、きっとすごく焦る。
 大人しく説教される覚悟を決めて、『分かりました』と返事をしたためる。
 送った後に思い出したので、もう一つメッセージを送ることにした。
 
『夕べのうどんも、今日のうどんも美味しかったです。ありがとう』
 
 
   □

 ピンポン。チャイムを鳴らして、鍵を開ける。部屋は明るい。澄は起きているらしい。黒斗は鍵を閉めて靴を脱ぎ、台所へと顔を出した。澄は流しに軽く腰掛けている。朝と変わらずいつも通りの顔色に、そっと胸を撫で下ろす。
「おかえり、黒斗」
「ただいま、すみ兄。もう熱ない?」
「今測ってる、あ」
 間髪入れずにピピと鳴る。体温計だ。すっと眼前に見せつけられたそれは平熱を指している。よかった、本心は音を伴って口から出ていった。澄は緩く頷いて、それから黒斗の手元を見た。豆腐、玉ねぎ、ニンニクチューブや麺つゆ、生肉生魚にハムとチーズ、乾物や袋ラーメンに長持ちするらしいパンなどスーパーで豪遊した有様を、指先に食い込む持ち手が語っている。
「しまうの手伝う」
「あー、下処理とかも頼んでいい?」
「もちろん」
 野菜はそれぞれ一口大に切って袋にまとめる。行き先は冷凍庫。肉や魚も同じく、一食分に分けてラップで包み、冷凍庫へ。今日から日曜にかけて使うものに関しては冷蔵庫だ。ぎっしりビニール袋に詰まっていた中身も、二人で手分けすればあっという間に片付いて、すっかり冷蔵冷凍庫へ収まった。
「黒斗、昼何食べる?」
「一番のやつー、ラーメン!」
「俺もそうしよ」
「うどんうどんラーメンだけど良いの?」
「……何が?」
「あー……、具は何でもいい?」
「任せる」
 しまったばかりのラーメンを二袋取り出した。澄から鍋を受け取って水を溜める。量は適当。ほどほどになったところで鍋を返し、冷蔵庫からハムと卵を出した。ハムは二枚ずつ、卵は一つずつ。ゆで卵を作るのは面倒なので、なんちゃって温玉にしたい。マグカップに水を少し、そこに卵も落としてレンジにかける。一つ終わったら丼に避難させて、もう一つ作る。これは羊子に習った温玉だ。湯が沸いたらしく、澄は麺を茹で始めている。
 なんだか、空気が実家に似ている。どちらの家というわけではない。二人で食事の準備をしているのが、この半年で失われていた平日の空気に似ているのだ。実家ならば母のどちらかが居て、指示通りに動く。今日は司令塔がいなくて、二人で話して中身を決めているのだけど、なんだか安心するのだ。食事の準備をする時間は、他愛もない話がいくらでもできる。
「今日ギブリね」
「ねぎやだ」
「んー、なら水菜にする」
 要望にお応えして冷蔵庫から水菜を出す。彩なので一房で十分。キッチンハサミなんて気の利いたものはないので、さっと洗ってからまな板に乗せて包丁で切り分ける。
「俺さあ、昨日のうどん、すみ兄一人で食べ切るとは思ってなくてさ」
 くるくる、湯の中で二人分の麺を泳がせる澄の横顔を見る。ちら、と目が合った。なんだか気まずそうだ。思い当たる点がないので首を傾げると、澄は鍋へと視線を戻す。
「……俺、全部食べても大丈夫だった? 黒斗の分もあったりした?」
「いや一応一人前だけど……、俺はああいう時缶詰食って終わっちゃうからちょっとビビった」
 食べ過ぎたかと思っていたらしい。うどんはひと玉だけど、卵は二つで根菜も割としっかり目にいれたから、厳密には一人前とちょっとある。が、ここで明言する必要もない。
「そっか。美味しかった。ありがとう。……あの後夕飯食べた?」
「うどんもう一玉茹でて食べた」
「そっか」
 それならいい、と澄が呟いて、場に沈黙が走る。ぐつぐつ揺れる鍋だけが雄弁だ。
 温玉を二つともマグカップへ避難させて、空いた丼とまっさらな丼をコンロ近くに並べておく。スープの粉も入れて、あとは澄待ちだ。
「黒斗は」
 ひそやかに切り出した言葉の続きを待つ。澄の思考がゆるやかに巡り、缶詰、と呟く。
「缶詰?」
「そう、熱出たときに食べる缶詰って、桃?」
「あとはみかんとか」
 パイナップルは当たり外れが大きいので滅多に選ばない。そんな補足を付け足すが、なにやら澄は腑に落ちないらしい。なんとも物憂げな表情だ。
「お腹空かない?」
「どっちかといえば疲れるかな」
「つかれる」
「そう、疲れる」
 見解の相違というか、体質の違いというか。黒斗は食事にも消耗するが、澄は違うらしい。初めて知るお互いのことを、今までの認識に沿わせて落とし込んでいくのは、少しくすぐったい。
 コンロの火を落として、丼にそれぞれ湯が落とされる。スープを溶かすために軽く箸で混ぜると、麺がどぽんどぽんと追いかけてきた。ざっと二人分分けたところで、スープの嵩増しのために湯が増える。ほどよくスープが照る表面に、作った温玉と切った水菜とハムを載せれば完成だ。それぞれで持ってリビングへと移動する。
「お茶いる?」
「いる。れんげは?」
「あんの? じゃあいる」
 コップとさっき使ったマグカップ、それから昨夜仕込んだ麦茶を持ってリビングへと戻る。澄は箸とれんげを手にしている。澄の正面、定位置に座り込んで、コップとマグカップに麦茶を注ぐ。コップは箸とれんげと交換だ。
「いただきます」
「いただきます」
 合掌して一言。同じタイミングで箸を取り、各々食べ始めた。澄は猫舌なので、少し冷たいハムを泳がせている。麺から豪快に行く黒斗とは大違いだ。ハムを箸で摘んだまま、澄が口を開く。
「昨日、連絡しなくてごめん」
「うぐ」
 突然の謝罪に、啜ったばかりの麺が詰まる。ここで来るとは思っていなかった。いや、ならどこで来るというのだ。けほけほと喉を鳴らしてなんとか事なきを得た。様子を伺う視線が刺さる。顔を上げると、また澄が喋り出した。
「俺はなんか、あんまり見られたくないなって思って。寝れば治るし、明日……今日はもう、こうして元気になってるだろうし、あえて言うことでも無いかなって思ってた」
「それやだ」
 温くなったハムを一口。存外大きな一口を眺めながら、黒斗は意見を提示する。澄の中で完結していても、黒斗にとっては知っておきたいことがたくさんある。過干渉と言われても否定できないけれど、出来る範囲で澄のことは知っておきたいのだ。
「だよね。……黒斗、知りたがりさんだし。もうちょっと話したほうがいいんだろうな、って反省した」
「もっとしてー。咲本さんから聞いた俺の気持ちもっと想像してー」
 ずるずると麺を啜り、緩く固まったなんちゃって温泉卵を割り、溶け出した黄身ごとスープを啜る。なんてことない市販のラーメンだけど、これが美味しいのだ。ハムの脂が溶け出して味は丸くなりつつある。
 澄は水菜をこれまた泳がせながら、あー、と呻く。
「俺は人伝でも知れてよかったって思うけど、黒斗はすごく嫌だと思う」
「正解! めっちゃ焦ったし心配した。すみ兄から聞けばさ、昨日の俺の動揺はもっと少なかったと思う」
「だろうね。ごめん」
 水菜をしゃくり。ただ洗って切っただけなので、煮込まれてくたくたになっているわけではない。さっぱりと口の中が軽くなる。ようやく麺に手を出した澄は、自分の中で物事を完結させることばかりだ。半分休講となっていた時間に考えたことが、言葉となっていく。
「俺はさ、結構知らないことあんだなって思ってた」
「……俺の好きな人も知らなかったし?」
 反省したばかりとは思えぬ切り返しに目を細める。告白したときに出てきた、墓まで持っていくつもりだったらしい秘密と、寝れば治る体調不良の隠蔽を同列に並べないでほしい。
「すーみーにーいー?」
 あの時は幼かったし、澄は懸命に隠していたし、知る余地もなかった。軽口とはいえ今持ち出されたい話題ではない。ごめんなさいと今日何度目かの謝罪と共に、澄は口をつぐんだ。れんげで白身の残骸を掬い集め、一口で飲む。気が付けば、黒斗の丼の中身はほぼスープだけになっている。
「……すみ兄、思ってること隠すの上手いけどさ、俺は話もっと聞きたい。今回みたいに心配するのはもう嫌」
「寝れば治るから、隠してるつもりはなくてですね」
「見られたくないんでしょ? 猫じゃないんだから言葉にしてよ。お見舞いだけして帰るとか、そもそも家に来ないとか。状態が分かれば選べる選択肢もあるよ」
「なるほど」
 スープを啜って、丼の中身を空にする。澄はスープを飲まないので、今れんげに集めている分で完食となる。
 今回含め、澄から頼られたり相談されたり、甘えられた記憶がほとんどない。
 というか、記憶を掘り起こしてみても見当たらない。黒斗にとっては不満である。
「頼るばっかじゃなくて頼られたいし、甘やかされてばっかもやだ。不安とか不満とか、つらいとか、もちろん嬉しいことも、全部一番最初に教えてほしい」
 最後の一口を咀嚼しつつ、澄が頷く。
 麦茶を飲んで、一息ついて。
「俺の彼氏、超のつく過保護だ…… 」
 なんて、噛み締めるように言うものだから笑ってしまった。黒斗は過干渉で過保護だ。自覚があって、それが共通認識となったら遠慮の必要もない。
「知らなかった? 覚えといてね」
 はぁい、と軽い返事に頷いて、どちらともなく手を合わせた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさまでした」

 洗い物を終え、暖房が配備されたというロフトへと上がる。ロフトにしては広い空間も、男二人で入ると狭くなる。あちこち転がっていた本が棚に収まっているので、スペースはある方だ。
「黒斗の本、床から一応棚に入れたんだけど」
 ぽつり、報告のような、指摘のような声に背筋を伸ばす。入り口そばの本棚の一角から、澄は分厚い本の背を撫でていく。黒斗が持ち込んだ図鑑とか鈍器レベルの本とか。どこに入れたらいいのかが分からなくて積んでいた覚えがある。
「これ、入れ方は単純で、ジャンル別作家別になってます」
 左上から小説、戯曲、学習書類。筆者順に入れて、細かく言うなら出版社とその通番に並べること。澄が指差した並びは、きちんと作家順だった。シリーズも順番通りに並んでいる。いくつか合間に挟まっているのは、スピンオフではなく、単発で出た作品のようだ。
「一番下、全部黒斗の本入れて良いよ。小説は上に混ぜてもいいし下でもいい」
「いいの? 移動大変じゃない?」
「上はほとんど置いてないし、下から上に入れるだけだから別に」
 今下だけ開けようかと澄が言い出して、本棚整理が始まった。
 まずは共同作業だ。澄が下の段から本を出して、受け取った黒斗が一番上に入れていく。言葉通り最上段には数冊しかなかったので、下段のものは全て収まった。
 それからは各自で作業だ。黒斗は、自身の専攻に関わる鈍器を空いた下段に詰めていく。澄は黒斗が持ち込んだ小説を収めている。
「これどういう本?」
「んー、言葉遊びが得意な探偵ポジになっちゃう姓名不詳の一般人が主人公」
「どういうこと?」
 咲本に勧められた作家が、「ひ」の枠に収まっていく。全ての段にある程度の余裕があり、作家買い三人分が一気に増えてもさほど手間ではないらしい。ぎっちり詰まったので上下の段に逃がされたのは、せいぜいが五冊ほどだ。
 黒斗が積んだ本が、綺麗に本棚へ収まった。
「棚のルール分かった?」
「うん。俺の枠もありがと」
「わかんなくなって床に置く日が来たら、ちゃんと確認取ってください」
「はぁい」
 説教を終えて満足したのか、澄がビーズクッションに埋もれていく。さらさらの黒髪を撫でながら、本棚を眺める。小説枠に持ち込んだ本が収まっている。黒斗の視線を追いかけて、澄がぽつりとつぶやく。
「知らない作家が増えてた」
「うん」
「あと、俺には読めない専門書も。栄養とか気にしたことなかったな……」
 専攻ですから、と答えつつ、ふと思考が引っかかる。食に無頓着なこの男、そもそも三食食べているのだろうか。気にしたことなかったけど、と前置きして、クッションに埋もれる澄に抱きついた。逃亡防止策だ。澄の視線が宙を泳ぐ。
「俺が居ないとき、平日って何食べてる?」
「昼は弁当か定食……」
 ほらあの、館近くの高崎さんの、と言い訳する澄にのしかかる。ぐう、と呻いたのは、重たいからか後ろ暗いからか。
「朝は?」
「……夜はお惣菜買ってて……」
 視線は逃げ続けている。食が細い訳でもない。今まで週末一緒に食べていた分量はほぼ同じだ。熱があっても一人前平らげる胃袋だ。
 若さにあぐらをかいた食生活。授業担当の講師がトーンを落として若者に言い含める姿を思いだした。澄も分かっていて、けれど観念しない。顎に手を添えて向きを固定する。寄りかかる段階をもう一つ上げ、澄の逃げ場を全部奪った。
 真正面から見つめて、問う。
「朝、は?」
「水……」
 後ろめたいと言わんばかりの答えが、栄養士が部活で説教した姿を思い出させた。ちゃんと生きられない栄養取ってスポーツやるなんざ無理も無理だろ馬鹿なのか。彼の言葉が再生されている脳内は、一気に真面目モードに入ってしまった。
「わーキレそう。もっと干渉すればよかった」
「ご飯作ってもらうの申し訳ないし大抵朝お腹すいてない……」
 言い訳を重ねる澄から降りて、本棚からレシピ本を出した。野菜のバリエーションを増やす本だ。一つの野菜を複数のレシピで使い倒す、旬も風情もないが栄養には長けた本だ。これでも強豪部のマネージャー、合宿では朝夕の食事も担当している。一人暮らしを始めた澄より料理はできるのだ。
「今から作り置きを仕込みます。朝、一口でもいいからあっためて食べて。証拠写真も送ってください」
「……寝坊したら?」
「今度図書館にカロリーバー差し入れに行くね」
「はい……」
 クッションから降りて正座している澄は、胸を張る要素がないので随分縮こまっている。思っていたよりも食が雑なので、いっそ呆れてすらいるのだが、恐らくそれも伝わっているのだろう。
 人間の細胞は、一定の周期で入れ替わる。今から数えるなら、年内に間に合わなくとも引っ越してくる辺りには、大半の澄の身体が、黒斗の手料理で作られている計算だ。
 胃袋と食生活を握るとして、あとは精神面の負担も奪ってしまいたい。
 どうやら保護対象として見られていることはよく分かったので、そこから脱出して、頼れる人間だと認識してもらう必要がある。澄の意識を変えるには、わかりやすい意思表示を徹底したほうがいい。何から始めればいいだろう。
 例えば。兄と呼ぶから弟扱いされるのかもしれない。歳の差は覆らないし、兄のように慕った時期だってあった。けれど今は恋人で、次の春からは同棲する家族だ。今までの関係も家族じみてはいるが、兄弟と伴侶では大きな、どうにもならない差が存在する。
 もう弟ではないのだ。と、分かってもらうためにも、まずは呼び方から変えてみるのもいい。
「すみ兄のこと、今日から澄さんって呼ぼうかな」
「……どういう結論?」
「秘密」
 俺の秘密はダメなくせに、とぶつくさ聞こえるのを無視してロフトから降りる。追いかける軽やかな足音に、別に怒っているわけではないのを確認した。

   □

 家を出てから半年。母の手伝いの中で育まれた調理スキルは、使わないと錆びていく。道具も揃っていないし調味料だってほとんど無い。澄は最低限切る焼く煮る蒸すはできるが、揚げとなると専門外だ。母が得意だというのもあるし、ぱちぱち跳ねる油は予想がつかなくてちょっと怖い。
 換気扇がぐるぐると仕事する台所には、作った料理を端から並べて冷ましている。
「これは揚げ焼きにします」
 黒斗が指差したのは、ほどほどの厚みに切りそろえられたかぼちゃ達。下味をつけて片栗粉を纏った姿だ。フライパンの底に油をとぽとぽと注ぎ、たっぷり底にサラダ油が広がって、底のサイズ感が屈折でわかりにくくなったところで火をつけて、油の温度を上げていく。これくらいかな、と呟きながら、かぼちゃをそっと寝かせていく。寝湯で転がる人間みたいだ。澄の感想は胸に留め、代わりに流しに溜まった調理器具を洗っていく。
 水菜はツナ缶の中身とあえてレンチンされた。サバ缶とトマト缶が合体して、玉ねぎも加えた形でサバのトマト煮が出来上がった。コーン缶はほうれん草と合体し、醤油を被ってタッパーに収まっている。我が家に適当に転がっていた缶詰はあっという間に料理の形になり、冷めるのを待つばかりだ。
 冷凍したばかりの豚肉鶏肉、鰤に鮭に鰺は来週までのところでまた使うらしく、今回は出していない。
 
 昨夜は卵と挽き肉のそぼろ丼がぱっと出てきて、炊飯器が動いていないことをやんわりとがめられた。お日様の香りがする布団を二人で分け合い、ダブルベッドで眠るまでは良かった。問題は朝である。目を覚ますと、寝顔を眺めていた黒斗は笑みを浮かべ、買い物に行くよ、と告げた。
 言われるがままに着替えて家を出た。近場のカフェで朝食を取って向かった先はホームセンターだ。黒斗曰く、作り置きを溜めるには装備も素材も心許ない、らしい。それはそう。我が家にタッパーはない。あるにはあるが、二つだけだ。黒斗のお眼鏡にかなうわけもない。ホームセンターでタッパーを買いそろえ、スーパーで素材ならぬ材料を揃え、ドラッグストアでインスタントスープを買い足す。その全てで澄は支払いを担当した。他に出来ることがなかったとも言う。黒斗は不満げな表情を浮かべていたが、黒斗に作ってもらうのだからと説得してどうにか全額支払った。
 帰宅後は、味見をしながら怒濤の調理タイムだ。
 買ってきた野菜と肉と魚とが、下処理されて加熱され、様々な味付けを施されていく。切って切って切って、作る料理毎に仕分けたあとはタッパーが所狭しと並んでいる。南蛮漬けになった魚、揚げ浸しになったなす、キーマカレーになった玉ねぎと挽き肉、同じ材料でタコライスもできあがり、さっぱりした朝食用の作り置きに加え、どうやら夕食用の作り置きもあるらしい。
「……黒斗、大学で何やってるの?」
「アスリートのサポートに必要なこと大体全部。合宿の料理も作ってるし、栄養士さんと部活のメンバーの食事管理もやってる」
「なるほど……」
 知らない間に、随分と料理上手になっている。高校の頃は残り物を弁当に詰め込んでいただけだったのに、司令塔が居なくても献立を組める人間になっている。
「春とか四年とかいわないで、もうこっち引っ越そうかな」
「学校遠くなるから院からって話でしょ」
「だってさあ、半年かけてため込んだ俺の持ち込み調味料に気付いてなかったんでしょ?」
 備え付けの収納で、取るのが億劫になるだろうと使っていなかった上の棚を、黒斗は活用していたらしい。さて料理、となった段でおもむろに出てきたので驚いた。半年かけて増やしていたらしいが、一切気付いていなかった。うちに来て黒斗が料理をすることはあったのだけれど、さて自分は何を見ていたのだろう。無いに等しいプライドを蹴散らすとともに、台所は黒斗に明け渡すことにした。ロフトは澄の城、台所は黒斗の城だ。
「冷めたやつ、食べそうなやつは冷蔵庫で、他は冷凍庫に入れといて」
「日付は書く?」
「うーん……、覚えてられる?」
「無理です」
「書いてください」
 好きな物事への記憶に自信はあるが、食へは一切興味がない。日付は二週間後にしてとの指示に従い、書いておく。製造日ではなく、賞味期限を書くらしい。確かに日付が迫っていると食べるかもしれない。
 マスキングテープに日付を書いてタッパーに貼っていく。適当に分けて冷蔵庫と冷凍庫に入れて、洗い物が増えたらまた洗って、冷めた料理は日付を書いて仕舞う。
 二人暮らしを想定して買った冷蔵庫に、中身が詰まっている。九割九分がタッパーだけれども、この半年一度も見たことない光景にため息が出た。
「これが無くなるまで夕飯の外食禁止だし、朝食抜き禁止です」
「昼は?」
「お弁当か高崎食堂の定食でしょ、なら大丈夫」
 すっかり食の主導権を握られてしまった。これは続くのだろうか。確認してみると、黒斗は縦に首を振った。頷いた。一度ならず二度も繰り返した。続くらしい。
「俺としては助かるんだけど、黒斗は負担じゃない?」
「料理するのは好きだし、俺としてはすみに、澄さんが倒れる方が困るので全然大丈夫」
 体調管理は甘い自覚があるが、別に倒れたわけではない。悪化する前に寝て治すつもりだった。食べ物と薬を挟んで、さらに栄養ドリンクを追加したのは黒斗なので全てが澄の裁量とは言えないのが弱いところではある。
「羊子さんが栄養不足だって言ってたんだよね」
 母――看護師からの診断は、栄養不足らしい。寒さにやられたものだとばかり思っていたけれど、どうやら食生活が祟って弱ったのが問題のようだ。思い当たる節しかないのでぐうの音も出ない。
「どうせちゃんと食べてないからって薬と一緒に教えてくれた。どうせまた倒れるし栄養も偏ると思う、とも」
 二人の母からの言葉を、黒斗はないがしろにしない。どうせ倒れるなんて予言をされてしまえば、それこそ作り置きを絶やさず澄の食を改善しようとするだろう。食欲ない日のためにとチーズまで買い足していた。何が何でも三食きっちりと食べさせる気だ。
「もしかして俺、詰んでたりする?」
「俺はそのつもりだよ」
 フライパン片手に黒斗が笑う。かろやかな笑い声。幼い頃から共にいた黒斗。恋心を秘めたまま、頼られるのが嬉しくて年上ぶったあの頃の自分も、突然恋をぶつけてくる幼気な黒斗も、もういない。澄はようやく、黒斗を一人の人間として見たような、そんな気がした。弟のようだ、と思っていた黒斗はもういない。ここに居るのは、澄の胃を掴もうと食生活の管理を試みる、年下の男だ。
 心配をかけたくない、なんて傲慢な考えは捨てよう。澄の思いがひそやかに芽生える。これから先、黒斗と二人で生きていく。年の差なんて些細なことは気にしないで、話したいことを話し、悲しいときに泣きついて、嬉しいときは共に喜び、辛いときは素直に頼れるような、そんな日々が来る。それもきっと、そう遠くない日にくる。
「諦めてね、澄さん」
 黒斗の言葉が、チェックメイトの宣言だ。澄は大人しくうなだれて、せめて食費は払わせてほしいと嘆願するのだった。
 
   □

 この半年ですっかり慣れた通勤路を二人で行く。澄は出勤で、黒斗は午後からの講義までは図書館で過ごすつもりだ。いつもの月曜日だ。違いがあるとすれば、ロフトから降りてきたエネルギーバーの類いが澄の鞄に詰まっていることだろうか。
「今日も地下作業だから構えないよ」
「分かってるって」
 大通りの通勤ラッシュには巻き込まれたくないので、一本隣の細い路地を行く。時折車が通るくらいで静かな道を、二人で歩いた。
「んじゃまた週末。毎食の写真お待ちしてます」
「了解……、適当に頑張ります。じゃあね」
 図書館の入り口で別れて、黒斗は玄関前のベンチに座り込んだ。開館までは少し時間がある。ストレッチをしたり、軽い筋トレをしたり。汗もかかないほどの緩い運動をしていれば開館時間だ。
 入り口の向こう、自動ドアを手動で開けていく職員の姿が見える。咲本だった。澄の先輩で、常連の黒斗に東尾という作家を教えてくれた人だ。
「おはよう、英君」
 ガラス戸が少し開く。その間から届いた挨拶に軽く頭を下げた。
「おはようございます」
「知ってると思うけど、黒井君地下作業だから会えないよ」
 完全に自動ドアが開く。人感センサーが咲本と黒斗に反応して開いたままなので、どちらともなく中へと進む。ドアの閉まる音を背に、利用者用の入り口へと向かう。顔見知りの職員とすれ違って会釈した。
「一緒に来たんで知ってます」
「ごちそうさま。黒井君が元気そうだったから安心したよ」
 入り口そばの棚には、季節の展示がある。この間まであった幼稚園児の塗り絵はなくなっていて、代わりに小学生達の作った秋の小物が飾られている。間には芋掘りの絵本やまんがで分かる畑のひみつなんて本が並んでいた。
「連絡もらって助かりました。俺に言うつもり無かったらしいです」
「あー。やっぱり」
 新しいポスターもあるな、と横目に見ながら進む。貸出カウンターと絵本コーナーに挟まれた廊下を通り抜け、検索用のパソコンや漫画コーナーを通り抜け、カウンターの出入り口まで進む。
「なんも知らないままいつも通り澄さんちに行くとこだったので、本当に連絡もらえてよかったです」
「どういたし……、ん?」
 出入り口の前、奥にも手前にも開くドアの前で咲本が立ち止まる。黒斗も釣られて立ち止まる。どうしました、と問いかければ、司書はぱちくり瞬いて、それから。
「呼び方、変えたんだね」
「あ、はい」
 抜け目なく気付いた年上の人に、どう答えたものか。大人として、一人の男として見てもらいたくて。そんな本音は誰かに言うことでもない。言ったところでからかうような人でもないけれど、何でもかんでも人に伝えるのは美徳ではない。
 隠す代わりに笑ってみた。咲本も笑う。
「かっこいいでしょ」
「そうだね。――じゃあ、ごゆっくり」
 カウンターの中、咲本が手を振って事務所の方へ向かっていく。手を振り返し、学習スペースへと足を向けた。
 今頃澄は、閉架書庫で本の修復に取りかかっている。その仕事は見たことがないし、今後も見ることはない。黒斗が大学で学んでいる内容も、澄は知らない。いずれ料理を通じて知るのだろうけれど、すぐに分かることではない。
 いつもの学習スペースに腰掛けて、いつものように勉強道具を出す。
 けれど、黒斗の意識は確かに前を向いていた。
 澄さん、と、淀みなく呼べるようになって、それが当たり前になって、今が懐かしいと思うほどの、近い将来。澄が頼りに出来る大人になっていたい。
 黒斗がページをめくる。静かな図書館に響く音は、進歩の靴音にどこか似ていた。

よければ一緒に

 あ、え、好きじゃん。

 英黒斗は、突然恋心に気がついた。あまりの衝撃に歩みが止まる。吸って、吐いて。どくどくと体中の音が耳元でざわめいて、呼吸の音すらもごうごうと鳴る。なんだこれ、と呻いても答えはない。多分そう、これは、恋だ。
 隣を歩いていた黒斗が急に立ち止まったのに気付いて、幼馴染――黒井澄も立ち止まる。
「黒斗?」
「……あ、ううん」
「汗かいてる。今日暑いもんな」
 きっちりシャツのボタンを首まで締めている澄は汗一つかいていない。しわ一つ無いハンカチで額を拭われて――鼻先をくすぐる黒井家の柔軟剤の匂いで目が覚めた。
「ありがと。……ちょっと考え事してた」
「そ。早く帰ろう。今日は冷やし中華だから」
 連れの恋が芽吹いたなんて知りもしない澄は、さっさと歩き出してしまった。
 そう、冷やし中華。夕食の話をしていたのだ。黒斗も澄も好物だ。どちらかと言えば、澄の母、黒井家の味付けが二人とも好みだったりする。母同士の職場が同じで、なんだったら大学も高校も同じらしいのだけど。とにかく、二人の間で今日は冷やし中華だと決まったようだ。
 職場――唐立区立病院での職分は違えど、長年仲良しの二人のことだ、一緒に昼食を摂ることも多い。同じ職場で同じ主婦で、互いの家庭を知り尽くしているならば話題は尽きないが、大抵はその晩の献立に落ち着くことも多い。胡瓜の安売りとかから広がって、揃いの献立に決まったのだろう。今日みたいに、昼休みに夕飯の連絡が来ることも多い。
 放課後、部活から解放されて真っ先に向かうのは、区で一番大きなからたち図書館だ。学生向けの自習室は、喋っていい部屋とダメな部屋があって、大抵は前者に入り浸っている。
 いつものように自習室で宿題をやっていると、後から澄がやってくる。隣に座って開口一番が「メール来た?」だ。黒斗の返答は「冷やし中華」で、やっぱり、と澄が頷いた。これもいつもの光景だったりする。
 自習室で宿題を終わらせて、復習なのか予習なのかパラパラと教科書を眺める幼馴染の隣で本を読む。中学生にはまだ早いと馴染みの司書にからかわれた本も、言い回しに癖はあれど難なく読める。互いにきりのいいところで終わらせて、二人並んで家に帰る。

 そんないつも通りの光景に、夕日が差し込んだ。

 道路脇、四つ角にあるカーブミラーに反射した夕日が、澄の横顔にスポットライトを当てた。と、同時に風が二人の間を駆け抜けていく。毛先が風に浚われて、眼鏡に隠された美貌が不意にあらわになった。
 澄は、有り体に言えば美人だ。それこそ幼少期には女子と間違われることもあった。分厚い眼鏡がそれを隠しているけれど、黒斗は澄の美しさをよく知っている。
 黒斗は、誰よりも澄のことを知っている自信がある。綺麗な顔も、そこにコンプレックスを抱いていることも、つっけんどんな言動の裏に優しさが存在することも、それが身内限定であることも、よくよく知っている。
 ずっと一緒にいた。学校こそ小学校の二年間しか被っていないけれど、医者と看護師のシフトに合わせて、互いが互いの家で夜を過ごすことも多かった。澄が大学に進学してからここ半年は少なかったけれど、それこそ去年まで、半年前までは毎日のように夕食を囲んでいたのだ。
 澄が大学生になって半年。少しずつ、澄の服装が変わってきた。私服は面倒だからと制服を好んでいた男が、カジュアルな私服を増やし始めたのだ。いつだって一緒に服を揃えてきたのに、今日は知らない服を着ている。似合っているけれど、高校生だった澄なら選ばないような、ひらひらしたカーディガンに薄く柄の入ったシャツだ。
 自分の知らないところで澄が変わっていく。自分だけが知っている澄のことも、いずれは誰かが知ってしまう。どうしようもない事実が、黒斗の喉を締め付けた。
 ひゅう、と音もなく息を呑む。
 知らないところで、知らない人になっていく黒井澄なんて嫌だ。
 ずっとずっと、澄の一番は自分がいい。

(ああ、俺、すみ兄のことが好きなんだ)

 唐突な答えがストンと腑に落ちて、立ち止まって。目の前を進む澄の背中がきらきらしくて、自分の鼓動がうるさくって、だらだらと流れていく汗を拭う優しさが嬉しくて。
 この手が誰かを選んだら、その人の汗も、優しく拭ってあげるのだ。どうしようもなく許しがたい妄想が体温を馬鹿みたいに上げていく。煮えくりかえるはらわた、じりじりと焼け付く肌、唐突な独占欲の爆発でぐらぐらと揺れる脳みそ。そんな、嫉妬に狂う自分を自覚して、それでもこれが恋じゃないなんて、黒斗に言えるわけもなかった。
 思い返せばずっと手元にあったような、もしかすると無かったような。今までがあんまりにも心地が良くて、分厚いヴェールが剥がれなかった、心の奥底にあった恋心が、青天の霹靂が如くあらわになった。
 どくどくと耳元でうるさい鼓動は落ち着かないまま澄の家に着いて、玄関先で手を振って別れる。たった三軒隣の家なのに、気をつけてと見送ってくれる優しさが、自分以外に向くのを許せない。
 中三の夏。英黒斗は、幼馴染への恋心を自覚した。

        ■

 家族で囲んだ夕食はやっぱり冷やし中華で、母の味を噛みしめながら、もう一人の実家とも呼べる存在――黒井家のことを思う。英家より少し夕食時が遅いから、澄はまだ本を読んでいるはずだ。もう少ししたら風呂に入る。ずっと一緒にいたからこそ、生活リズムは知り尽くしている。
 幼稚園に入る前、英家はこの地に引っ越してきた。黒斗の母、医師の英千奈津と、澄の母、看護師の黒井羊子による策略である。どうせ夜勤のある仕事なのだ。家事に不安のある旦那に子供を任せるより、互いに預けた方がよほど安心できる。どちらかが夜勤ならもう一方が面倒を見る。明快で安全な、育休明けどころか十年後を想定した計画だ。
 したたかな母二人により、黒斗と澄は共に過ごすことが多くなった。小学校の登校班はもちろん同じだったので、登下校はいつも一緒だった。帰る先は母親のシフトに寄るけれど、大抵はどちらかの家に揃って帰る。
 澄が中高一貫校の中等部へと通い始めても、やっぱり登下校は一緒だった。追いかけるように同じ学校へと黒斗が入学してからは、図書館で待ち合わせるようになった。中高一貫校の中で、遅くまで開いている施設が――中高共通の施設が、そこしかなかったのだ。
 黒斗がバレー部に入ってからは、図書館ではなく体育館――部活後に合流することが増えた。部活を見学している日もあれば、ボール出しを手伝ってくれる日もあった。
 澄が大学に進学し、黒斗が中等部最高学年――三年もなった今も、やはり変わらない。時折母親に頼まれる買い物は、結局二人で行った方が楽になるし、何より一緒に帰らないと落ち着かないからと図書館で待ち合わせている。集合場所が学校の図書館から区のからたち図書館へと変わったけれど、変化らしい変化はそれくらいだ。
 小学校から数えて、実に八年半。黒斗は澄とともに帰宅している。黒斗の記憶にある限り、澄の我が儘で一人寂しく帰宅したことはないし、そもそも澄が特定の誰かを恋人にした事実もない。
 人好きのする見目をしているが、女性的であることをからかわれたり、露出狂に出会ったり、大人に声をかけられたりした過去が他者への警戒心を強めている。大勢の好む遊びや運動に興味を持たない澄は、深い仲の友人がいない。学校生活を送るには十分だけれど、五年後に覚えているかは怪しいような、そんな友人ばかりだ。黒斗に紹介するほどの友人もいなかったのか、共通の知り合いと呼べる人間もいない。
 他人に興味もなければ、恋人なんて存在に興味もないのかもしれない。
 ぐるぐると考えながら食事を終え、シャワーを浴び、短い髪を乾かして。自室のベッドに転がって、天井に向かって呟いた。
「すみ兄、恋人絶対にいないし童貞だよな。……好きな人とか、いるのかな」
 澄を捕まえるための外部障壁は、恐らく一つも存在しない。

 あるのは、黒斗の懸念だけ。

 いつの記憶かも分からない。両親曰く二歳の頃だという。
 黒斗には、将来を誓った運命の人が居るのだ。オレンジ色のワンピース、さらさらとなびく美しい黒髪。綺麗で、優しくて、でも顔は良く覚えていない。覚えているのは、綺麗な花畑で、彼女の手を握ってプロポーズをしたことだけ。
 相手が覚えているかどうかも分からない約束だけれど、黒斗の深いところに根付いている。
「……あの子、名前なんだっけ……」
 手がかりは何もない。強いて言うなら、驚くほど綺麗だったということだけ。それも、感情と記憶が根底にあるから、本来の造形も分からない。街を歩く度、おぼろげな記憶の彼女に似ている人を探し続けて十四歳になったのだ。今まで見つからなかったけれど、この先もそうだという保証はない。自分が覚えているのに、相手が忘れているなんて決めつけることも不可能だし、不誠実だ。
 どれだけ澄のことが好きだと自覚しても、彼女がとんでもなく綺麗だった感情だけはどうにも忘れられない。いっそ架空の存在であれば良かったのに。両親が証人となっている以上、運命を確信した相手は実在するし、きっとこの近くに住んでいる。
 けれど、今の黒斗には澄しか選べない。
 ずっと抱いていた運命の人への思いは、どうしたらいいのか。
 迷走する思考に溺れながら、黒斗は眠りに落ちるのだった。

        ■

 ピピピピ、目覚まし時計が鳴り、微睡んでいた意識が覚醒する。微かにいい匂いが黒斗の部屋にまで届いている。母、千奈津は朝に弱い分、とにかく早起きしてご飯の準備をした後、仮眠を取るスタイルを貫いている。今頃、台所でうたた寝しているのだろう。いつもの朝だ。
 例え黒斗の恋心が目覚めようと、日常は変わらず過ぎていく。
 黒斗は洗面所で顔を洗い、歯を磨いて、それから台所へと顔を出す。
「かーさんおはよ」
 案の定机に突っ伏していた母は、んん、と呻いて顔を上げた。いい匂いに囲まれるといい休息が取れるらしい。眠気より食い気が勝る黒斗は、母の持論が腑に落ちていない。
「おはよー黒斗。父さん今日休みだって」
「じゃあ起こさなくていっか」
「そそ。味噌汁お願い」
 言われるがままにコンロに残る鍋を覗き込んだ。ふわふわと湯気が漂っているので、温め直す必要はない。汁椀二つに味噌汁を注いで食卓へと運ぶと、すっかり起きた母が、とぽとぽと麦茶をコップに注いでいる。卓上を確認すると、卵焼きと白米、漬物が並んでいた。米は冷めてもいいが味噌汁はダメ、というのが英家の家訓である。
 母の正面は父の場所だ。二人のはす向かいである定位置に座って、手を合わせて。
「いただきます」
「めしあがれ」
 食前の挨拶をして、汁椀を手に取った。
 黙々と食べ進め、休憩として麦茶を飲む。コップが空になったので席を立ち、冷蔵庫から出した麦茶を注ぐ。ついでに空になった母のコップにも麦茶を注げば「あんがと」と軽やかな礼とともに引き取られていった。
「黒斗は気が利くねえ」
「父さんもじゃね? っていうか、俺のは教育された結果」
「そうねえ。でもあの人打算の割合が強いとこあるから。私が捕まったの、懇切丁寧に損得を説明されて頷いちゃったからだもん」
 付き合い始めた当初、父は駆け出しの営業マンだったはずだ。なかなかに売り上げも良く、期待の新人で、今のうちに選べば価値が上昇した未来よりも恋人にしやすいですよ、とかなんとか。聞く度に詳細は変わるけれど、色気のない口説き文句という点だけは変わらない。恐らく大量にメリットを並べ立てたせいで、記憶を引き出す度に万華鏡みたいに違う言葉が出てきてしまうのだ。
「いいじゃん、今仲良しなんだから」
「たくさん喧嘩したのよ。黒斗は打算で伴侶捕まえちゃだめよ」
 伴侶、と言えば。昨日自覚したばかりの恋が脳裏をよぎる。いつものようにすんなり受け流そうにも、昨晩どうにか澄を落とせないか検討したばかりである。恋人ナシ、友人も少ない幼馴染なら、どうにか既成事実を作ったり理詰めで口説き落とせないかと、それこそ両親のパターンを踏襲すれば行けそうだなんて考えていたのだ。
「あー、うん……」
 必然、返事にキレはない。そして、それを見逃す母でもない。
「あら。誰かいい人見つかったの」
「いやー、……俺さあ、ちっちゃいときにプロポーズした子いたじゃん」
 名前が思い出せなくて、と呟くと、母は不思議そうに首を傾げた。
「それならすみちゃんよ」
 やけに耳馴染みのある響きだ。なにせ毎日聞いている。母がそう呼ぶのは、幼馴染である黒井澄だからだ。運命の人は、母の交友関係に存在し、黒斗が認識していない「すみちゃん」のようだ。
 同じあだ名で複数の人を呼ぶなんて珍しいな、と思いながら、食べ終えた食器を積み重ねる。母の分も引き取って立ち上がった。流しの洗い桶に運び、ざああ、と水に沈めていく。
「母さんってすみ兄以外にもすみちゃんって知り合いいるんだ」
「あんた寝ぼけてんの? すみちゃんは黒井のすみちゃんよ」
「は?」
 そんなわけはない。だってあの子は、オレンジ色のワンピースを着ていた。髪も長くて、可憐な女の子だったはずだ。おぼろげな記憶とは噛み合わない。
 いつの間にか隣に立っていた母が、水道のレバーを押さえる。母の発言に衝撃を受けている間に、水は溜まって流しにあふれていた。
 衝撃で思うように動かない体で、黒斗は記憶との齟齬を訴えるべく言葉を絞り出す。
「あの子、ワンピース着てたじゃん、オレンジの」
「なんでそこは覚えてんの? あいつが性別気にして服着せるわけないじゃない。似合う服ならワンピースでも短ランでもなんでも買うでしょうよ」
 感情が悲鳴を上げてショートした。
 理性は、少しずつ状況を噛み砕いていく。
 澄の母、黒井羊子は少々型破りな人である。料理の隠し味とか、赤の他人への発想とか、日常にあふれた物で遊ぶ術とか、ふわふわとした見た目で人をダマして前例を作ったりとか。破天荒を内包した綿飴のような人だ。仕事では天使のような看護師だと聞いたけれど、現場を見たことはないのでデマの可能性もあるとは思っているが、今は関係ない。
 確かに、一緒に服を買いに行ったとき、男物から女物から大人向けにシニアコーナーと、店の思惑にとらわれず隅から隅までを回ったこともある。短ランは多分澄には似合わないので買わないだろうが、今も似合うスカートがあれば買ってくるかもしれない。
 ゆっくりと、冷静に考えれば、あり得ない話ではない。
「……じゃあ、おれ」
 冷蔵庫の前、麦茶を注いだその場で飲んでいる母と目が合った。
「初恋の人を、また好きになったってこと?」
「あら、好きになったのってすみちゃんなの」
 麦茶を飲み干した母は、にっこり笑って頷いた。
「どうしよ、めっちゃ嬉しい」
「嬉しいのはいいけど、そろそろ学校の準備したら?」
 母の言葉に時計を見ると、いつもならとっくに着替えている時間だった。まだ寝間着のまま、寝癖も直していない。
「まず着替えてきなさい。すみちゃんが迎えに来るわよ」
「今日は二限だから来ないよ」
「なんで知ってんのよ」
 呆れた母を背に自室へ戻る。学ランを着て、鞄に卓上の勉強道具を放り込んで、洗面所に駆け込んで頭を突っ込み水を流す。冷たい水で、物理的にも頭が冷えていく。タオルであらかた水気を取って、寝癖がごまかせたのを確認して玄関に飛び込んだ。
「行ってきます! 今日どっち?」
「羊子が夜勤だから二人ともうちでご飯」
「マジ?」
「違ってたら後で連絡するわ。行ってらっしゃい」
 笑い混じりの母に見送られながら家を飛び出した。多分、母親間でさっさと情報が回るのだろう。そんなことはどうでもいい。
 運命のあの子に、謝る理由がなくなった。
 澄を選ぶことに、躊躇する理由がなくなった。
 憧れの女神を、独占したくて堪らない幼馴染を捕まえても問題ないのだ。だってどちらも同じ人なんだから。昨晩の悩みを吹き飛ばす新事実が、朝の足取りを軽やかにした。

        ■

 放課後、からたち図書館の自習室で、いつもの席を陣取って宿題をこなす。日常を半分過ごせば朝の高揚も落ち着いてくる。とはいえ、問題は解けるが小説は頭に入ってこない。どうしようかな、とすぐ澄のことばかり考えてしまう。なんて言えば、澄を捕まえられるのか。そのことばかり考えていると、澄からの連絡が入る。

【千奈津さんから買い物メモ来た】
【なんで俺じゃないの?】
【どっちでもいいからだろ。玄関で待ってる】

 転送されてきたメッセージを確認して、今日の夕飯を想像する。たまご、米、キノコ類と野菜、なんてアバウトな指定ばかり。澄でなければ物の善し悪しが分からないから、確かにメッセージの送り先としては最適だ。
 置いたままだった本と宿題を鞄に放り込んで、忘れ物がないかを見てから自習室を出る。図書館の玄関ホールで待つ澄を見つけた瞬間胸が躍る。昨日の気付きから、澄の傍にいるとどうにも心が落ち着かない。
「おまたせ」
「ん。いこ」
「どうする? ゴーマート?」
「井上さんとこで新米買いたいし、キハダかな」
「りょーかい」
 玄関を出て、キハダ商店街の方へと足を向ける。いつもと同じ帰り道だ。だけど、恋がもたらすフィルターが幸せを増やしていく。
 恋をすると世界が変わる、なんて小説ではよくある表現だ。どうやら本当にあるらしい。
 他者への警戒心が強い澄が、自分に対して無警戒に話をしてくれる。今まで通りの澄が嬉しくて仕方がない。要するに浮かれているのだ。そんなことは分かっていて、きっと澄にもばれていて、けれど深くは聞かれない。ひどい悩みとかではないからと放置されているのだろう。そんな、必要以上に踏み入らない優しさも好きだ。
 母の指定の買い物を終え、二人で英家へと帰る。
 待ち構えていた母に食材を引き渡し、ご飯までの待ち時間はいつものように、リビングで自習室の続きだ。宿題は終わらせてしまったので、澄の様子をのんびりと眺める。本を読んでいなくても、やっぱり澄は何も言わない。珍しいな、とでも考えているのだろう。自分に害がなければ、身内の不審な挙動も放っておける性質だ。
「すみ兄、それなに?」
「情報学の基礎みたいなやつ」
「楽しい?」
「割と」
 黒斗にはちっとも興味の湧かない分野でも、澄には面白いらしい。広く浅く、何に対しても知識を得るのが楽しい性格だ。大学進学の際も、学部転向のしやすさや、学べる分野の広さを重視していたのを覚えている。
 カレーの匂いがする。ルーを溶かし始めたのだろう。新米と秋野菜のキノコカレー。旬の詰め合わせみたいな夕食は、想像するだけでおなかがすく。匂いがそれを煽っていく。早く食べたいという気持ちはもちろんある。けれど、食事が始まれば、何もしないで澄を眺めているわけにはいかない。中学生男子の食欲は、その場でだけ恋心に勝って、何合も米を平らげるまで収まらないのだ。早く食べたい気持ちと、このままずっと澄を見ていたい気持ちがくるくる目まぐるしく入れ替わっていく。
 夕飯が出来たと母に呼ばれるまで、黒斗は浮ついたままだった。
 
 結局、十合炊きの炊飯器は空になった。黒斗は予想通りよく食べたが、珍しく澄もおかわりをしていた。旬の暴力に負けた形である。千奈津のカレーは美味しい。少しの辛さが食欲を煽って、旨味の塊に追われるように食べ進めていると、いつの間にか鍋が空になっているのである。
 食器を片付けたところで、澄は家に帰ることになった。洗濯物があるとか、明日の準備があるとか、まあいつもの理由である。どうせ朝になったらまた会えるのだし、引き留める理由もない。あらかじめタッパーに分けてあったカレーを持たせて、両親によろしくと見送った。
 さて、母と二人きりである。玄関先で一息ついた黒斗に、母はくすくすと笑う。
「……あんた、馬鹿みたいに浮ついてたねえ」
「やっぱり?」
「ふわっふわしてたし、ずっとすみちゃん見てるし。世界もしかして二人きりだったりした?」
 母の言う全てに自覚があった。カレーを食べ始めてからは落ち着いたものの、図書館の帰り道からずっと、澄の存在が嬉しくて堪らなかった。医師として磨かれた母の目で見抜くまでもなく、あからさまに舞い上がっていたのだ。
「あんた、すみちゃんに告白するの?」
「する。絶対する。ずっと一緒がいい」
「プロポーズしたときと同じこと言ってる」
「俺成長してないじゃん」
 そん時の話しようか、と母が言うので、一も二もなく頷いた。黒斗が母と話すときは、大抵現実や未来の話ばかりで、昔話をすることがほとんど無い。そちらは大体父の担当で、最近は大型プロジェクトが忙しいとかなんとかであんまり顔を見ておらず、話をするどころではない。
 食卓の定位置、ではなく、父の定位置、つまりは母の正面に誘われて、大人しく座る。いつもの椅子じゃないからか、同じ椅子なのに、どこか座り心地が悪い。カレーの残り香が鼻孔をくすぐるが、満腹だから惑わされることもない。
 とぽとぽ、と麦茶を注いだコップを大人しく受け取って、母の言葉を待った。
「あんたが幼稚園に入る前にね、あたし達は寮から出ることになったのよ。父さんのいた寮は独身優先だったから早く出て行けって空気があったし、タイミングもいいかなって思って。それで、二人で引っ越し先を探してたの」
 丁度その頃、このあたりの土地を一斉に売り出して、モデルハウスを建てたり、新規の住人を呼び込んだりと、開発のタイミングだったという。
 黒井家が代々住んでいる土地で、子育てにも優しく治安のいい土地だと聞いて、二人は決め打ちのような形で出来合の一軒家を内見して回ったのだ。
 内見には時間がかかる。内外装や近所との接地面、庭の広さや水回りの高さなど見るべきところはたくさんある。幼児を連れ歩くには、厳しい物がある。
 家を数軒見て回る間、黒井家の好意に甘えて、二人は黒斗を預けたのだ。
「じっくり見て、まあここならいいねって決まったのがうちね。決まったから迎えに行くって連絡したら、もうちょっとで面白いことになるから早くおいでーって言われたのよ。何かと思って急いで指定の公園に行くじゃない?」
「……それで?」
 一応続きを急かしてみるけれど、この先の展開は分かりきっている。
「可愛いワンピースがよく似合ってるすみちゃんに、あんたがね、『おおきくなったらけっこんして!』って一生懸命言ってたの」
「ゥア……」
 まだ幼い息子が、とても幼い息子が、淡いオレンジのワンピースに身を包んだ、さらりとした長髪の、当時小学校一年生の澄に求婚していた。その現場に居合わせた衝撃はいかほどだろう。少なくとも、黒斗に想像は出来そうにない。
「全然記憶にない……」
「二歳の記憶がしっかりあったら怖いわよ。外で遊ぶなら公園ってことになって、花畑でシロツメクサの花冠作ったり、のんびりひなたぼっこしたりして、あんたがあれなにこれなにって全部聞いて、すみちゃんがぜーんぶ教えてくれるもんだから。あんた大好きになっちゃって、ひっついて離れなくなって、挙げ句の果てにはプロポーズ。もうほんと、びっくりしたわ」
 結婚なんてどこで覚えたのかと思ったら、犯人は羊子だったのだと母が笑う。
「羊子がね、『ずっといっしょがいい』っていうから結婚したらいいのよって教えてあげたわって、アレ特有の、悪気のない悪戯が発動してたのよ」
 旧友をアレ呼ばわりしたところで、母の中でのオチがついたらしい。ぐい、と麦茶を呷ってコップを空にする。おかわりをそっと注げば、ありがとう、と礼が飛んできた。
「まあ、なんかあるとあんたには婚約者いるもんねとか言ってた私も悪いんだけどね。……まさかねえ、一周回ってすみちゃんね」
 しみじみと、今度はゆっくりとお茶を飲みながら、母は優しく微笑んだ。幼少期、二人の母にそそのかされて初恋を覚えたことを知り、それが今の思い人であることを理解して、黒斗の頭はパンク寸前だ。
「なんで好きだって気付いたのよ」
 だから、秘密にしていたいようなことも、聞かれれば素直に話してしまう。
「……俺の知らない服着てて、なんかやだった」
 黒斗の切欠を、母は笑うことなく受け止めた。馬鹿みたいとかガキくさいとか、それは独占欲であって恋じゃないとか、そんな野暮なことは一つも言わない。
「告白するなら、攻め立てて落とすんじゃなくて、ちゃんと話し合った方がいいわよ」
 否定ではなく助言だけを残して、母は席を立つ。台所でコップを洗い、風呂に入ると言ってでていってしまった。去り際、ぐりぐりと黒斗の頭を撫でる様子があんまりにも満足そうで、引き留める言葉も出ない。
 残された黒斗はというと。汗をかいたまま、少しも減っていない麦茶のグラスを見つめながら、母に聞かされた過去を咀嚼している真っ最中だ。おぼろげな記憶の中の、握った手の先、オレンジ色のワンピース。その先、揺れる黒髪と、柔らかい瞳と、美しい顔立ち。それが、出会った頃の――黒斗が小学生になる前、顔を合わせた時の澄と重なって、パチンと何かがが嵌まるような感覚が走る。
 母の忠告は心の隅に留めたまま、ぬるい麦茶を飲み干して台所に向かう。数時間前、ここで一緒に食器を洗った澄のことが、なんだかもっと好きになったような、そんな気がした。
 

        ■

 澄が英家で夕食を摂った次の日は、黒斗が黒井家に行くことが多い。今日もいつものパターンだ。夕飯は羊子にリクエストしな、とふわふわしたアドバイスとともに黒斗を見送った千奈津は、布団に潜り込み、夜勤に備えた仮眠を取っている。
 毎日のように互いの家で過ごすので、着替えの心配は必要ない。どちらの自室にも互いの私服や寝間着がストックされているし、それが無くとも、下着以外なら勝手に着ても文句を言われることはない。衛生管理が徹底されているのは、両家の母の教えである。
 いつも通りの日常を過ごす黒斗は、移動教室の合間、廊下の窓から中庭を見下ろした。中庭の隅、渡り廊下の影のあたりが告白スポットであり、澄が定期的に足を運んでいた場所でもある。
 半年に一度のペースで、澄は誰かに呼び出されていた。大抵は告白であるし、その何割かが黒斗宛の伝書鳩依頼であったのだけど、そのどれにも澄は否を突きつけていた。振られた女生徒やら男子生徒やらが直接、お前がいるからか、と問うてきたのを、不意に思い出したのだ。
 澄に告白するのは大抵が同世代、つまり黒斗にとっては上の世代なので、高等部からわざわざ中等部までやってきたことになる。当然目立つので、関連する噂は黒斗の耳にも届けられた。好きな人が居るなんて断り文句を六年言い続けて卒業したらしい。実際に黒斗に詰め寄る人間もいたのだから、おそらくは本当のことである。
 今でも誰かを好きだったらどうしよう。そんなことを考えていれば、あっという間に放課後だ。
 部活は、三年生になってすぐ、四月の時点で退部した。今いる一年生は、黒斗が部員だったことを知らない者がほとんどだ。バレーを辞めた明確な理由はない。高校を外部受験する予定もなければ、大きな怪我を負ったわけでもない。自らが体を動かすことより楽しいことが見つかる予感がしたのだ。今は、人体の構造を学べたら、なんて漠然と考えている。
 放課後はいつも通りからたち図書館へ。カウンターで本を返し、そのままの流れで館内を歩く。小学生向けの文庫コーナーで見知ったシリーズの新刊はない。子供向けの本はあらかた読んだから、黒斗はもう少し奥、漫画やライトノベルの方へと向かう。漫画で分かるシリーズや、大御所漫画家の全集が並ぶ棚から二冊選んでカウンターへと戻る。ぐるりと一周して選んだ本を借り、二階へと昇る。奥の自習室は会話禁止だから、入ったことはほとんど無い。手前の、ささやかなざわめきの漂う自習室の方が、よっぽど居心地がいい。
 慣れ親しんだ自習室で待っていれば澄が来て、いつもみたいに勉強したり読書をしたり。きりがついたらどちらともなく帰る準備をして、図書館を出る。買い物の連絡がなければまっすぐに家に向かうし、あれば昨日のように、スーパーか商店街を経由する家に帰ると二人で手を洗って、食事の準備を手伝ったり、図書館の続きを過ごしたり。着替えがあるように当然シャンプーも置いてあって、まあ自分のがなければどっちを使ってもいい、なんて空気もある。羊子の洗顔を使っても怒られないが、千奈津の石けんを使うと怒られる。風呂上がりにのんびりと過ごして、帰ってきた父を迎えたり、自室に戻ってごろごろしたり。そんな、当たり前の日常。
 澄は自分のベッドの上で、黒斗は澄の部屋の中央、太陽の残り香を纏う布団の上で好きなように過ごしている。手を伸ばせば触れられる距離だ。
 自らの生活は、とても恵まれている。
 好きな人がすぐ傍にいる、満たされた日常を送っているのだ。
 けれどそれは、放っておけば失ってしまう。どんどん遠くに離れていって、気付いた頃には取り戻せなくなるような、そんな予感がする。それは嫌だ。
 だから黒斗は、口火を切った。
「すみ兄、あのさあ」
 話しかければ、生返事が降ってくる。布団の上で丸まって、それから起き上がる。黒斗は澄をまっすぐ見上げた。言葉が続いてこないのに気がついて、澄が体を起こす。黒斗を見る。目が合った。

「どうしたの」
「俺ね、すみ兄のことが好き」

 今日学校でテストがあった、みたいな。普段と代わり映えのないトーンで、黒斗は思いを告げた。
 澄の表情は変わらない。笑い飛ばすような人ではない。きちんと咀嚼しているのだ。
「友愛、家族愛、恋愛とかあるけど。どれ?」
「恋愛」
「……お前、婚約者は?」
 少し待って出てきたのは、幼い頃からの笑い話だ。そして、二人にとっては大事な話でもある。
 黒斗には婚約者がいる。黒斗の母、千奈津が散々話題に上げてきたのだ。もちろん黒井家にだって浸透しているし、相手のことを覚えていないことも含めて、澄だって知っている。
 この場で改めて話題に出すのならば、澄は知っているはずだ。黒斗が澄に思いを告げるにあたって、覚えていなかった相手のこと――『すみちゃん』のことを、片付ける必要がある。
「母さんから聞いたんだけどさ、あん時俺がプロポーズしたの、すみ兄なんだってね」
 それで、と続きを促す澄の表情に動きはない。黒斗の言葉を待っている。
「なんか俺、それ聞いて安心して。俺、ずっとあの子――すみちゃんのことも好きだし、すみ兄のことも好きで良いんだって、思った」
「うん、それで」
「改めて、俺と結婚して欲しい、……ってのは早いけど、俺を、すみ兄の一番にしてほしい」
「へえ、そう」
 その、言葉の冷たさに。照れくさくてゆるりと落ちていく視線がぴたりと固まった。反射的に上を、澄を見やる。眼鏡の奥、相貌の色は反射でよく見えない。見えなくても、それが冷えきっていることだけはすぐに分かった。
 だって、ずっと一緒にいたから。
 静かに怒る澄のことだって、よく知っている。
「黒斗は、アレが俺だって分かって安心したんだ」
「……うん」
 何かを、間違えた。けれどその何かが分からない。困惑の波に飲み込まれた黒斗は、言われたことに、頷くことしか許されない。
 
「黒斗は、なんでも教えてくれて、優しくて可愛くて、ワンピースの似合う『すみちゃん』が好きなのであって、俺が好きなわけじゃないんじゃない?」

「え」
 ちがう、とこぼれ落ちた声を冷ややかに無視して、澄は目を反らしてしまった。そのままベッドへと沈み込み、掛け布団を被って姿を隠してしまう。怒りであり、拒絶である。澄の行動に追いつけなくて、止めることも声をかけることも、立ち上がることも出来ない。呆然とする黒斗に、澄が与えたのは沈黙だけだった。
 かち、かち、かち。壁に掛かった時計の針が動く。ぼーん、遠くで柱時計の時報が聞こえる。黒井家の大黒柱とともに、この家とずっと在る時計の音だ。かち、かち、かち。澄からの返答はない。時計を見て、時間を確認して。黒斗はようやく、言葉を絞り出した。
「……すみ兄、怒らせてごめん」
 無言。
「俺、ここで寝てもいい? 帰った方が良いなら、帰るけど。……出来たらここにいたい」
 無言、無言。
「……寝るね。電気、消すから」
 無言、無言、無言。
「明日、また話を聞いて欲しい」
 おやすみ、と告げた黒斗に、やはり返事はない。あるのはふたり分の無言と、時計の針の音。それから、明確な拒絶だった。

        ■

 澄を怒らせてしまったとき、黒斗は一人で反省会をする。告白を無下にされても変わらない。
 澄は、優しくて賢くて、まるで聖人の様に見えるときがある。けれど本当は、許せるものと許せないものの線引きがしっかりしているし、内に秘めた熱量は、どこに収まっているのかが分からないほどに膨大だ。怒りはあんまり持続しなくて、爆発したら、冷めると共にに対象への興味を失い、捨ててしまう。
 それは明確に、黒斗にとって恐ろしいことだ。
 一番にして欲しいと告げたせいで、どうでもいい有象無象になってしまうのは耐えられない。
 だから、反省会をする。何を間違えたのかを確認して、きちんと謝って。それで、澄に許して貰わないといけない。
 澄は、黒斗の告白に対して「婚約者がいるはずだ」と言った。あのとき澄は小学生。一年生とはいえ、プロポーズなんて大きな出来事をそうそう忘れるわけもない。数年経って黒斗と過ごすようになり、忘れる機会が失われたのだから、尚更だ。
(……アレ、って、言った)
 過去の自分を、澄は『アレ』と称した。困惑の波が引いていき、それからふと思い至る。
 澄は、いつから女物の服を着なくなったか。黒斗の記憶が確かなら、中学に上がるときにはもう着ていなかった。小学校の半ばでもほとんど見ていなかったような、そんな気がする。
 あの頃はまだ視力が高くて、澄は眼鏡をしていなかった。今は滅多に見られない澄の素顔は、とても美しくて、綺麗で。それから、まだ体の出来上がっていない小さな澄は、可愛かった。だからこそ露出狂に狙われたこともあったのだし、女だとからかわれたこともあった。実態は知らないが、母はこっそりと教えてくれた。そういう悪い人も居るのだ、と。
 それがコンプレックスだと、黒斗はよく知っていた。

 ――知っていた、はずなのに。

(俺は、なんて言った?)
 あの子のことも好きだし、と言った。婚約者の話になる度に、でもずっと好きだ、とおぼろげな記憶に対して主張してきた。今更――本当に今更、告白されても怒るポイントではない。
 その次、「すみ兄のことも好きで良いんだって思った」と言った。求婚した過去に、今の感情を後押しされたのだと、そうとしか受け取れない言葉だ。
 これが間違いだ。澄にとって唾棄すべき過去と重ね合わせて好きだと言ってしまったのだ。自らに刺さる悪意に立ち向かって作り上げられた今の黒井澄を、澄が嫌いで仕方の無い過去の姿の延長として扱った。

 黒斗は、それに「安心した」とすら言った。
 最後通牒であるところの澄の確認に、しっかりと頷いた。

 自らで作り上げた『黒井澄』を踏みつけにした告白を、受け入れるわけも、許すわけもない。
 地雷をド派手に踏み抜いてしまった。布団という天岩戸に潜るのは当然、無言で蹴り出されなかったのも不思議なくらいだ。きっと、謝り倒してから帰宅して、また明日の朝にきっちりと謝罪するのが、正しい。ちょっとだけ気まずくなって、いつも通りに戻って、この話はおしまいになる。
 でも黒斗はここにいる。澄の部屋、その中央に、自分のために敷かれた布団の上で考えている。
 ここで間違えたら、本当に終わりだ。澄の中でどうでもいい存在になって、有象無象として背景になって、――それで、恋が散る。
 今の黒斗が好きなのは、今の黒井澄だ。一人で進んでいける強さがあり、眼鏡で隠しきれぬ美しさがあり、一番近くにいる、兄のような存在の澄だ。きらきらして、優しくて、なんでも教えてくれる、手を引いてくれる、絵本に出てくる女神みたいなあの子では、決してない。
 黒斗が抱いている感情は、憧れなんてちゃちなものではない。知らないところで変わっていくことを許せない、所有欲にも、独占欲にも似た恋だ。澄の全部が欲しい。黒斗の我が儘を煮詰めた願望だ。全部がいい。あの日のプロポーズの延長線なんて飛び越えて、遙か彼方の問題だ。
 他の誰でもない。運命でも婚約者でもない。ただ、格好よくて自慢の幼馴染の、黒井澄じゃないと嫌だ。
 あと一度だけ、言葉を伝えるチャンスがある。明日の朝。澄の頭が冷えて、黒斗の言葉を聞いてくれる、最後のタイミングだ。黒斗の将来は、数時間後にかかっている。
 振られたばかりの思い人と同じ部屋で、無神経に眠れるはずもない。何から伝えなくてはならないのか、どうすれば真意が正しく伝わるのか。
 眠たい頭で考えているうちに、運命の朝が来る。
 一生で一番長い夜が更けて、過ぎて、――無情にも明けていく。
 

        ■

 眠れずとも、だんまりと呼吸を繰り返していれば、自然に意識は遠くなる。満足のいく睡眠なんて取れるわけもなくて――取るつもりもなくて、いつものアラームで目が覚める。澄は寝覚めが悪く、いつも複数のアラームを設定しているのだけど、今日はさすがに、すぐに起きたらしい。一つ目のアラームは、二小節で途切れた。起き上がってベッドの様子を覗き込むと、充血した瞳と目が合った。澄も満足に眠れていないのだ。
「……」
「……おはよう、すみ兄」
「ごめん、……昨日、怒った」
「俺が悪いから、……すみ兄は怒って当然だよ」
 目尻の擦った痕と、掠れた声。黒斗の気付かないうちに、声もなく泣いていたのだろうか。それとも、無意識か。ぐ、とまた目元を擦った澄の手を止めようとして、はた、と手が止まる。空を泳いだ手を見て、澄も擦るのをやめた。触れて止めるには気まずくて、でも意図は伝わって。言葉がなくても通じることはあるのに、それだけでは足りないのだ。
「告白も、台無しにしてごめん。俺は、……黒斗には、もっといい人がいると思う」
 澄の言葉は、有無を言わせぬ強さを孕んでいた。黒斗がそうであったように、澄も眠れぬ間に考えたことがあるのだ。
「こっち上がって。……少し、聞いて欲しいことがある」
「分かった」
 誘われるままにベッドへ乗り上げ、壁にもたれる澄の正面、ベッドの縁からすぐのところで座り込む。黒斗が聞く姿勢に入ったのを見て、澄は話を再開する。
「さっきも言ったけど、黒斗にはもっと、いい人がいると思う」
「……いいひと」
「うん。大きくなったら結婚してって言われたときと違って、俺はもう、一ミリも可愛くない」
 澄は、枕元の眼鏡ケースを開く。出てくるのは、視力に見合わぬ分厚いレンズを抱える、野暮ったいいつもの眼鏡。
「顔の作りが整っていることに、自覚はあるよ。綺麗なものも好きだし、可愛いものも、かっこいいものも好きだ。……好きなものが似合うなら、幸せなんだって思ってた」
 無地のパジャマを纏う澄は、同じく無地のシーツの上にいる。二人の間で丸まっている布団も、カバーはシンプルな白だ。
「気に入ったワンピースを着るとさ、変態が決まって追いかけてきた。学校では女みたいって苛められて、買い物に行けば不自然に話しかけてくる大人もいた」
 綺麗な顔立ちが、女性的に見えるのがコンプレックスであることを、黒斗は知っていた。否、知っているつもりになっていただけだ。知っていなくちゃだめだからと母が教えてくれた何倍も、社会は澄に冷たかった。
「髪を切ったらストーカーが消えた。眼鏡をかけたら声をかけられなくなった。スカートをジーンズに変えたらいじめがなくなった。俺はそうして、好きなものと纏うものを分けて、いろんなことに適応してきた」
 澄がぐるりと部屋を見渡す。シンプルに整えられた部屋は、細々としたポイントに小物が置いてある。それらは母の趣味であったり澄の趣味であったりもするけれど、共通してターゲット層は女性である。
「昨日怒ったのはさ、……黒斗が好きなのは、今の俺だけじゃないんだなって、悔しかったから。結局は、ワンピースを着た可愛い可愛い六歳のすみちゃんの記憶が無きゃ告白もされない、決め手に欠ける人間なんだって思い知らされて、悔しくなった。八つ当たりしてごめん」
「……すみ兄」
 黒斗の言葉を、澄の手が制した。
「他人や俺自身が否定したから、綺麗で可愛い黒井澄は、もういないし、戻ってこない。俺より秀でた人なんてたくさん居るし、可愛くあろうとする運命みたいな人も、きっと見つかるよ」
 澄の中で一区切りついたのだろう。突きつけられていた手のひらが、ゆるりと下がっていく。
「ねえすみ兄、……俺の話も、聞いて」
「告白以外ならね。……とはいえ、そうなんだろうけどさ」
 ゆるり、澄の視線が黒斗から外れて、両膝を抱えて丸まってしまう。体の正面が見えなくなってしまったけれど、それで話を聞いてくれるなら、黒斗には十分だ。
「俺はやっぱり、すみ兄が好きだよ」
「……」
「すみ兄が傷ついて、自分を守ろうと変わったことも知ってて。全部じゃないけど、ちゃんと分かってたのに、まぜこぜに告白して、ごめん」
 まるで『婚約者だったから告白した』かのように伝わってしまったのは、浮かれて言葉を選べなかった黒斗のせいだ。母の「ちゃんと話し合え」という忠告を軽視したせいだ。
「そりゃ、プロポーズの相手がすみ兄だって分かったときはラッキーだと思ったし、運命だなとか、思ったし。それこそ安心もしたけど、違うんだよ。あん時の俺と今の俺とじゃ、抱えてる思いが全然違う。すみ兄が変わったように、俺も変わったんだ」
 ふ、と澄の口元が緩む。
「大きくなったし、強くなったし、な」
 空気を和らげようとしたのか、反らそうとしたのか。恐らく後者だろう。澄の言葉に応えそうになって堪える。このまま話題を反らされたら、思いを告げる機会は失われてしまう。
「俺は、すみ兄が俺の知らないところで変わっていくのが分かって、怖くなった。知らない服着て、知らない勉強して。……いつか知らないうちに、知らないところに行っちゃうんだって、怖くなったし、すごく嫌だった」
「母さん達に聞けば分かることだろ」
 そう、母同士の仲が良いのだ。聞けば大抵のことは教えてくれる。けれど、本人が嫌がることは決して教えてもらえない。だから、秘密にしたいことはきちんと守られる。それが保護者の義務であるし、母が、母たる所以だからだ。
「昨日、告白しようとしたのは、さ。その変化を生むのは俺が良いって思ったからなんだ。確かにプロポーズしたときは、すみちゃんが綺麗で、ずっと手をつないでいたかったんだと思う。けど、それとは全然違うんだ。全部俺が良い。手をつなぐだけじゃなくて、嬉しいのも悲しいのも、全部一緒がいい。綺麗だと思うし、ずっと手をつないでいたいけど、それ以上に俺の大切な人だって胸張って言いたいんだ」
 澄の視線が彷徨って、彷徨って――それから、黒斗を見た。眼鏡の奥に浮かぶのは、激しい怒りでも喜びでもなく、静かな感情。戸惑いではない。悟りか、諦めか。受け入れるようなその色に、黒斗は最後の一手を打つ。
「これってさ、恋かな。独占欲とか、我が儘かもしれないけど。俺はこれが恋だと思う」
「……うん」

「すみ兄が好き。ずっと俺の一番でいて欲しいし、俺を一番に選んで欲しい」

 リベンジは終わった。曖昧に、過去と混同した告白ではない。今の黒斗が、今の澄を好きだと伝えるための言葉は、これで尽きた。
 告白を聞き届けて、黙り込んだままの澄に問いかける。
「……すみ兄には、そんな人、いる?」
 黒斗の問いに、澄は静かに首を縦に振った――頷いた。
「うん、いる」
「俺の知り合い?」
「……黒斗、お前だよ」
 え、と間の抜けた声が黒斗の口の端から落ちていく。それを拾うように、澄は手を伸ばした。自然と正面から向かい合う形になる。抱えた膝は崩れ、間の布団は無残にも潰されていく。
 捕まった黒斗の腕を伝って、手の甲に触れられる。大きさを確かめるように手のひらを掬い上げたかと思えば、両手で包み込まれた。温かな体温が、じわりとふたり分混じっていく。
「俺は、黒斗のことが好きだよ。幼馴染として、兄として。……人としても、好き。全部ひっくるめて大好きだし、恋してるし、多分、愛してる」
 隠されていた思いに触れて、黒斗は呆然とする。
「でも、付き合いたいとかは考えてなかった。というか、ずっと諦めてた」
 知らなかった。想われていることも、澄が諦めていることも、知らなかった。
「なんで? 俺じゃだめなの?」
「言っただろ。俺はもう、綺麗で可愛い人間じゃないし、黒斗に相応しい人間はほかにいるはずだから、って」
 ふわり、自嘲の笑みを浮かべた澄に、黒斗が息を呑む。包まれていた手のひらが、ぱっと落とされて。布団に落ちて間抜けな音を立てる。
「そうやって諦めてきたから、急に変わるのが、本当に怖い。黒斗の望むような関係には、なれないと思う」
 黒斗が感情にまかせて走り出せる人間ならば、澄は石橋を叩いて渡る人間だ。相思相愛であると分かったとて、今まで渡れないのだと諦めていた橋の上を歩けるわけがない。本当に、進んで良いのか。変わって良いのか。それでもし、橋が崩れたら。一人で川に落ちて溺れるのではないか。そんな怯えが、澄の足を縫い止めて離さない。

「だから、俺以外の人を、探してくれ」

 澄が橋を渡れないのなら、黒斗はどうしたらいいか。
 決まっている。黒斗が迎えに行けばいい。動けると、渡れると、黒斗を選んで良いのだと本心から納得して歩き出せるまでずっと傍に居ればいい。
 一度放された手を伸ばした。澄は逃げない。ただ、諦めとともに黒斗の動向を見守っている。捕まえた澄の手は骨張っていて、可愛いより相応しい言葉がたくさんある。これは、澄が自分を選んで来た結果だ。軽く握ると、やんわりと応じてくれる。

 やっと、澄の本心に触れられた。

「すみ兄の一番は、ずっと俺だったんだよね」
 疑問と確認、どちらともとれるような問いかけに、澄は一度瞬いて、それから頷く。
「じゃあ、何も変わらないよ。それでいい」
 二人の間にある、柔らかな布団を膝で踏み越えた。正面から向き合って、目と目を合わせて、思いを込めて、握った手にも力を込めて。ここで落とす。絶対に、ここで捕まえる。そんな意思とともに、言葉を選ぶ。
「俺はすみ兄が好き。すみ兄は、俺のこと、好き?」
「うん。……俺は、黒斗が好き」
「俺には、すみ兄の代わりは居ないし、……俺の代わりも、どこにも居ないよ」
「……知ってる」
「だから、俺にして。急に変わんなくて良いから、ずっと一緒に居て」
 今はこれでいい。捕まえて、互いが互いの一番であればいい。きっとこの先、変わるタイミングはいくらでもある。進学や就職、転職とか、同棲とか、ひとり暮らしとか。いくらでも生活は変わるし、その度に関係は少しずつ変わっていく。
 ダメ押しにダメ押しを重ねた自覚はある。追い詰めた自覚も、どうにか捕まえられそうな手応えも、確かにある。
 ゆるく握った左手が熱い。
「……黒斗は、本当に俺で良いの」
「そう言ってんじゃん。俺は、すみ兄じゃなきゃだめなの」
 恐る恐る伸ばされた澄の左手に、頬を寄せてぶつかった。自分では見えないけれど、きっと紅潮しているのだろう。顔が熱い。
 躊躇いがちな指先が、頬に、肩に、膝に触れて。

「ばかだなあ、おまえ」
 赦しを、くれるのだ。

 黒斗は、澄を捕まえた。否、澄が、黒斗に捕まったのだ。
 じんわりと湧き上がる実感を、さするように背に伸ばされた手が引き上げていく。顔が、熱い。泣きそうな自分に気がついて、誤魔化すように口元を押さえた。唇に触れた指の背までが熱を帯びていて、どうしようもなかった。
「やべえ、……泣きそう」
「だろうな。そんな顔してる」
 あやすように背を撫でる手のひらと、つないだ手のひらが、澄の思いを伝えてくれる。
 澄が、選んでくれた。
 澄が、ずっと一緒に、これから先も隣にいてくれる。
 世界で一番幸せな人間であると確信できる、そんな朝だった。
 

        ■

 二人して寝不足のまま、ちょっと腫れぼったい瞼のまま過ごした日から、何日か。
 驚くほどに生活は変わらないまま、二人は過ごしている。英家で夕食を食べた翌日は、黒井家へ。その翌日は、また英家へ。黒斗と澄の間に『恋人』という肩書きが増えようと、何も変わらないのだ。
 昼休みに、母からメッセージが届く。【肉と魚】という単語だけの問いかけに魚と答え、夕飯は何になるのかを想像してみる。とはいえ、メインの食材だけで分かるならば苦労はしない。
 放課後は図書館の自習室だ。宿題を終えて、面白そうな本を探して一階をぐるりと回る。馴染みの司書に教えてもらった棚で何冊か見繕い、カウンターを経由してまた自習室へ。一冊目の半分ほどを読んだところで、遅れてやってきた澄が隣に座る。甘やかな言葉とか、そういうくすぐったいものはない。
「すみ兄、メッセ来た?」
「来た。出汁アンケだった」
「出汁?」
「味噌と醤油とキムチと豆乳」
「うーん、鍋」
「多分ね」
 本を読む黒斗の隣で、澄は一日の復習を始める。そのきりがついたなら、二人で一緒に帰るのだ。夕日の差し込む帰り道。人気の無い裏路地で、二人はそっと手をつなぐ。人の気配がすればすっと離れるような、そんな些細な触れあいだ。けれど、それでいい。
 おままごとのような恋愛から、二人は慣れていく。
 急ぐ必要は無いのだ。これからずっと、一緒に居るのだから。